漫画『キングダム』に見る文化人類学的教え。社会を新陳代謝を促す理想モデル
久しぶりの「ちゃんとしたエントリー」の更新。
イベントで忙しかったのと、原稿の締切に追われていたのでなかなかまとまった文章を書けなかった。
「いやいや、そんなのいつもの事でしょ。他に何か理由があるんじゃないかね?」
はいその通り。
お盆あたりから漫画「キングダム」を読み始めてしまったのですよ。あまりにも面白すぎて、仕事や家事をしている以外の時間はすべてキングダムを読み耽ることに費やしていたのでした。
というわけで、今日はキングダムの話のメモ。
キングダムの主題は「正統性を巡る人間模様」だ!
この漫画、古代中国の戦国ストーリーで、戦争孤児の少年、信が将軍へと成長していくいわゆる「ビルドゥングスロマン」ね(ジャンルは違うけどスラムダンクなんかと一緒)。
詳しくはgoogleで検索してもらうとして。この漫画には文化人類学的な学びがたくさん詰まっているのですね。
キングダムの主題は「正統性(オーソリティ)を巡る人間模様」である、というのが僕の私見。「正統性というものがどう生まれ、どう定着し、そしてどう更新されていくのか」という、人間社会の本質的な問いがここには詰まっている。
まず、主人公の信は戦争孤児であり、ストーリー前半では「奴隷」なのね。で、もうひとりの主人公、王の血を継ぐ嬴政(えいせい)も、年の若さと生まれの複雑さのせいで、権力闘争のなかでその正統性を発揮することができない。
主人公が「正統性」を持たない、という初期設定は何を意味するかというと「正統性が再び生成・更新される地点へと辿り着くことしか彼らの存在意義を証明することができない」という役割を追う、ということだ。
えーと、ちょっとわかりにくいな。
言い換えると「正統性を剥奪された者だけが、自分で正統性をつくりだすことができる」ということなのね。
ビルドゥングスロマンが成り立つ前提は「主人公の成長の余白がとんでもなくデカい」ということにあるわけであって、その時にもし「正統性をまんま受け継ぐ者」だと、成長の余白に限界があるわけだ(桜木花道がバスケットエリートじゃないからスラムダンクは面白いのと同じ)。
信の前に立ちはだかるのは、たいがい「正統性を持つエリート」。しかしこのエリート達はことごとく信に倒される。というか、「信が成長するためのチャンス」として踏み台にされていく。
「正統性の再構築」は、社会の新陳代謝である
なぜ彼らは信に敗れていくのか。
それは「正統性=権威を自明のもの」と信じ込んでいるからなのであるよ。「与えられたもの」を当然のように行使して彼らは強者になるわけだけど、しかしその強さには限界がある。「権威を自明とせず、権威の向こう側にある地平を見ることができる者」には勝つことができない。
キングダムのなかに、その具体的な例がある。
主人公と同じ戦争孤児の生まれである将軍、輪虎(りんこ)は超人的な強さの武人として信を圧倒するが、しかし戦闘中に覚醒した信にやられてしまう。
この二人の違いはいったいどこにあるのか。
輪虎は、自分を救ってくれた大将軍、廉頗(れんぱ)の「正統性」に帰属することで自分のアイデンティティを獲得した。
対して、信は「今まで誰も成し遂げなかった中華統一を実現する」という「既存の正統性を凌駕するビジョン」を自分のアイデンティティとした。
ここで明らかになるのは、「自明でないものを自分のビジョンとする」という者だけが、与えられるのではなく自らの手で「正統性」を「作りだすことができる」ということだ。
「既存の価値観を後ろ盾にする者」は、いづれ「既存の価値観を覆す者」に敗れる宿命にある。それはなぜか。その原理が働かないかぎり「社会の新陳代謝」が行われないからだ。
正統性をバトンパスするための理想像
何をそんな抽象的な話を、と思うかもしれない。でも、僕たちの生きている現代社会にあてはめてみたらどうか。
「正統性」とはつまり「既得権益」と言い換えることができる。
この既得権益が固定化されると、制度が硬直化し、既得権益を既にもっている年長の世代が無条件に権力を行使することができ、その下の世代は社会に何も影響を与えることができない。「持たざる若者」がそのままの状況でスライドして壮年になる社会は、確実に前の世代より劣化する。それを繰り返すと民族存亡の危機に関わる。
なので、世代継承が行われるタイミングで適切に「正統性の再構築」という作業が行われる必要がある。
王騎将軍の死の場面がなぜあそこまで心の奥底に迫ってくるかというと、王騎が「社会の新陳代謝」の重要性を自分の死をもって証明するからだ。
李牧という「新世代」に討ち取られること、そしてその李牧に対抗できる信という後継者を見出すことで、「自分が打ち立てた正統性が解体されること」を喜びをもって迎える。
なぜ王騎はそのことを喜ぶことができるのだろうか。それは「自分が正統性を破壊したことがあるから」だ。
どんなに自明のようにみえる正統性も、かつて誰かが打ち立てたものであり、その前には永遠に続くように思われた正統性の破壊があった。王騎はその「社会の新陳代謝のサイクル」を身をもって知っている人物で、だからこそ自分の死を「未来への祝言」とともに迎えることができた。
つまり「物わかりの良いおっさん」なのね。
王騎のその「物わかりの良さ」に青年読者は感動するのである。「こんなデキたおっさん、見たことねえよ」と。
対照的に、輪虎の師である老将軍、廉頗はどうだろうか。
彼は「黄金時代が過ぎ去ること」を認めることができない「物わかりの悪いじいさん」として登場する。
しかし、同世代のライバルである「物わかりの良いじいさん」である蒙驁(もうごう)に説得され、新世代の申し子である信に「お前が歴史に名を残すには、自分たちの黄金時代を超える業績を打ち立てるしかない」と告げて退却する。
今の自分から見れば未熟な者に道を譲るのは容易ではない。しかし考えてみれば自分にも未熟な時代があり、上の世代に道を譲られることで黄金時代のキャリアを築くことができた。
廉頗もまた「正統性を自分で打ち立てた者」。だからこそ、最後は自分のエゴよりも「社会の新陳代謝」を選ぶことができた。
つまり、物わかりは悪いが「あきらめの良いじいさん」なのね。
この「あきらめの良さ」に青年読者の胸は熱くなのである。「こんなカッコいいじいさん、見たことねえよ」と。
キングダムに登場する大半の脇役は「誰かからもらった正統性」にすがりついて生きているが、「正統性を自ら作りだそうとする者」に片っ端からやっつけられる。
その「正統性を巡る争い」のなかで浮き上がってくるのが、「ブレークスルーする若者」と「物わかりの良いおっさん」と「あきらめの良いじいさん」かなら成る「社会の新陳代謝を促す世代をまたいだアライアンス」という、文化人類学的な理想モデルなのであるよ。
(ちなみにその逆のモデルは「安定を望む若者」と「既得権益にすがりつくおっさん」と「バトンを渡す気がないじいさん」の「沈む泥船アライアンス」ね)。
“いつの時代も最強と称された武将達は、さらなる強者の出現で敗れます。
しばらく その男を中心に中華の戦は回るでしょう……しかし。それもまた、次に台頭してくる武将に討ち取られて時代の舵を渡すのでしょう。果てなき漢共の命がけの戦い。
ンフフフ全く。これだから乱世は面白い”
王騎の死ぬ間際のこのセリフ。いっけんマッチョに見えるけど、ここには文化人類学的な学びが詰まっているのだぜ。