女子をこじらせて。パズルのピースを増やさない人生について
ふと思い立って、最近逝去してしまった雨宮まみさんの「女子をこじらせて」を再読。
僕のブログや連載でもよく出てくる「こじらせ女子」という言葉の生みの親の作家で、先日40歳という若さでこの世を去ってしまった。
「女子をこじらせて」を再読して改めて「あ、こりゃあ生きていくの大変そうだな」と思ってしまった。死因はわからないけれど、こういう世界の見え方をしている人が長生きするのは難しそうだ。
雨宮さんの姿は「とても痛々しい」。
キャラ的にイタい奴だ、という意味ではなく、交通事故ででっかいガラス片がアタマに突き刺さっている人を見て「おお、こいつは大変だ」という意味で痛々しい。
その痛々しさが何に起因するかというと、「人生の要素がほぼ100%で自意識とセクシュアリティで構成されている」という極端なバランスだ。
(もしかしたら本を書く時につくられたデフォルメ人格かもしれないが)
思春期をはるかに過ぎてもなお、ませた女子中学生的な世界観がまるっと持続してしまった。
その「不自然さ」の歪みが、彼女の表現からビシバシ伝わってくる。
わざわざ僕が言う必要もないけれど、人生を構成するファクターは多様だ。
自意識やセクシュアリティの他にも、仕事や家族、ご近所付き合いや地域のコミュニティ、政治や業界、僕の知り合いなら自然環境や動物や植物などなど、数え切れないほどたくさんのパズルのピースが組み合わさってその人なりの人生が構成される(僕の人生の半分くらいは微生物で構成されている)。
このパズルのピースは、思春期からオトナになるにつれてだんだん細かく、複雑になっていく。経験が蓄積されるし、責任が増えていくからだ(社会的立場とか、家族とか)。
なんなら「だんだんパズルが複雑になっていく」というのをオトナになる、とか成熟する、と言ってもいい。
複雑になると面倒くさいこともあるが、メリットもある。
何か特定のファクターに依存しなくて良くなるので、価値観が大揺れしなくなってくる。ハタチの少年少女から見ると「枯渇してる」とか「終わってる」と見えるかもしれないが、この「いちいち動じない」というのは、怠慢の結果ではなく努力の結果だ。
思春期の子どもたち(特に女子)の世界観は、他人からどう見られるか、という自意識で大半埋め尽くされている。見た目や性格という「容易に自分でどうこうできない=与えられたもの」に振り回されるのは、ツラいし苦しい。
だけど経験を経るに従って、パズルのピースがどんどん増えていく。そのうちにかつてあんなにも苦しんだ自意識やセクシュアリティの問題に悩まなくなっていく。
コンプレックスとは「克服する」ものではなく、パズルのピースが増えることで相対的に優先順位が下がり「まいっか」となってフェードアウトしていくものだ。
翻って雨宮さんの『女子をこじらせて』の世界観はどうなのであろうか。
ここには「複雑化させるのではなく、先鋭化させる」というスタンスがある。分散化させるのではなく、己が幼少から持ち続けてきた「自意識、セクシュアリティ」というファクターを徹底的に先鋭化させるのであるよ。
どのように生きるかは人それぞれ。
という前提を置いたうえで、僕は思う。「その生きかたは健康に良くない」と。
見た目や性格、異性との関係にコンプレックスを持った幼少期があり、社会人になってセクシュアリティに関わる業界を生業にし、いつしか「美人」というカテゴリーに分類され、地位のある男性と付き合ったり、業界から持ち上げられたりする。
普通ならこれは「サクセスストーリー」なのだが、雨宮さんの場合はそうではない。
僕には「幼少期の自分に復讐する」という自傷行為に見える。
それはなぜか。もし「コンプレックスを持った自分」が間違いであって、過去が「なかったこと」になったら、自分が存在する根拠が消滅してしまうからだ。
本人は過去の自分を「成仏」させるためだと思っていても、結果起きているのは過去の自分への「復讐」なのではないか?
…と、読んでいるうちにツラくなってしまった。
(そして知人の女子の何人からのことに重ね合わせてしまったぜ)
こういう人格をつくりだしたのはオトコ社会そのものだ!みたいな社会背景を分析するのは僕の仕事ではないので、とりあえずそれは置いとくとして。
この袋小路から脱出するには、セクシュアリティを「いったん無いことにして」付き合える異性(あとたぶん同性も)との出会いが大事なんじゃなかろうかと僕は思う。
「いねーよそんな奴。結局友だちとかいってもみんな性的な目で見てんだろ」
という反論は間違ってる。世の中には「セクシュアリティというメガネを外して相手を見る」「こいつはどういう人格を隠しているのか?という詮索なしに相手を見る」という人がけっこういる(逃げ恥の平匡さんは仮想現実ではない)。
しかし。「パズルのピーズが極端に少ない人」は「同じようなパズルのピースの人」としか付き合えない(←「類は友を呼ぶ理論」)。
だってさ。もし「セクシュアリティ」というメガネなしで見られたら、そこには虚無しかない。「私のことちゃんと見てるの?」とその本人は思っちゃうもの(ほんとはそんなことないんだけど)。
極端なバランスの人ほど「あ、もうちょいユルくてもいんだ」とか「色んなピースがあってもいいんだ」という事に気づくと良さそうだが、バランスが崩れているという状況は「さらなるバランスの崩れ」を呼び寄せるネガティブスパイラルだ。
この「バランスをとことん崩す」時に発する強力なエネルギーが、雨宮まみさんの表現者としての魅力であり、読者である僕たちはその魅力を享受し、同時に彼女をさらなる袋小路に追い込んでいったのかもしれない。