先週は夏休みをとって、瀬戸内国際芸術祭へ遊びに行ってきました。
印象深い展示がたくさんあったのですが、その中から香川県立ミュージアムで見た「丹下健三 伝統と創造 瀬戸内から世界へ」について、備忘録も兼ねてメモ。
この写真は、展示会ポスターにも使われている、丹下さんの代表作「香川県庁舎」を横から写した写真。
…なんか、似てませんか?
今回の展示のテーマは、タイトル通り「伝統建築〜日本的モダン建築の創造へ」。
戦前、コルビジェに憧れて都市計画と建築を学んでから、日本のモダン建築のオリジネーターになるまでの軌跡を丁寧に掘り起こしていく、内容の濃い展示でした。
で。
展示を見ながら、丹下さんが香川県庁舎を経由して東京都新庁舎やフジテレビ本社に到達するまでの思考回路をトレースしようと頑張ってみました。ヒラクは建築の専門でもなんでもないのですが、意外に外れてないんじゃないかと思う仮説は以下の通り。
日本の伝統とモダンをつなぐ「水平志向」
さて。
ヨーロッパのモダン建築といっても色々な要素があるわけですが、生粋の日本人である丹下さんは、モダン建築の色々ある要素のなかから一番「日本の伝統っぽいもの」を選択していきます。
その要素とは、ズバリ「水平志向」ではないかと。
水平に構成される空間をつくり、それを「積み上げて」いく。その典型が五重塔のわけですが、木造だからそんなにたくさん積み上げられない。対して、コルビジェ建築はコンクリートガッチリだからどんどん積み上げられる。香川県庁舎は、「コンクリートというモダンな建材の力を借りて、日本的水平を積み上げる」というトライアルなわけです。
コルビジェ設計の国立西洋美術館。THE 水平。
厳島神社。水平の極み。
一夜で灰にならない都市をつくりたい
↓以下wikipediaより引用↓
広島に原爆が投下された1945年(昭和20年)8月6日には、父危篤の知らせを受け帰郷の途にあって尾道にいたが、焼け野原となって跡形も無くなっていた実家に到着した翌7日、父はすでに2日に他界しており、また広島市への原爆投下と同じ日に実施された今治への空襲によって、最愛の母をも同時に失っていたことを知らされる。壊滅的被害を受けた広島は、外国の雑誌でル・コルビュジエのソビエト・パレス計画案と出逢い、建築家を志した想い出の地でもあった。その広島の復興計画が戦災復興院で俎上にのぼっていることを知るに及んで、残留放射能の危険性が心配されたにもかかわらず、丹下は志願して担当を申し出た。浅田孝・大谷幸夫ら東大の研究室のスタッフとともに1946年の夏に広島入りし、都市計画業務に従事した。その成果は、広島市主催の広島平和記念公園のコンペに参加した際、見事1位で入選という形で結実する。
さて。戦中戦後のこの体験が「日本のモダン建築家」というアイデンティティをかたちづくったのだとするならば、丹下さんの望みは「一夜で灰燼に帰することのない都市」をつくることであり、そのための「堅牢で立派な建築」が必要で、その建築はかならず「日本というアイデンティティ」を継承していなければならない。丹下さんはそのように思考を重ねていったのではないかと思うわけです。
広島平和記念資料館。うーん、水平ですねえ。
東京都庁舎。↑の広島平和記念資料館を無限に積み上げるとこうなる。
想像するに、天高く積み上げられた東京都庁舎を目にしたとき、丹下さんは相当嬉しかったと思うんですよね。「やった!『日本』をここまで立派に積み上げたぞ!」てな感じで。
ここで、高層建築をつくるときの発想の違いが明らかになります。
「垂直に立ち上げる」か、「水平を積み上げる」か。丹下さんは(ヒラクの知るかぎりですが)エッフェル塔とか東京タワーみたいな「天にそびえる構造」はつくらず、ひたすら五重塔を高く積み上げていくことを目指した。それが、「日本的モダン」だったのではないでしょうか。
磯崎新はネイティブ、丹下健三は非ネイティブ親
さて。東京都庁舎といえば、弟子筋の「ポストモダン建築家」、磯崎新さんとのコンペの話が有名。磯崎さんは「高層建築はもういらん」と言って、コンペの条件を無視した低層都庁舎を提案して丹下さんと対決します。「モダン建築家」対「ポストモダン建築家」の構図ですが、これって喩えてみれば「外国語ペラペラのネイティブ息子」と「大人になってから海外に渡り、苦労して外国語を学んだその親父」みたいな感じの価値観のギャップが生じる状況だと思うんですよね。
大人になってから外国語を学ぶときって、必ず「日本語と参照させながら」学びます。
「”see”=”見る”」てな感じで。で、それを一歩進めるなかで「なんで”I see”で”わかった”っていう意味になるわけ?」みたいなギャップが起こる。
そこで「なるほど、つまり”百聞は一見に如かず”みたいなことだな」みたいに類推して納得するわけですよ。
丹下さんの場合は、コンクリートやガラスで大空間を形成していくという外国語文法を、厳島神社や五重塔に類推して「ハラオチ」してモダン建築を作っていったんでしょうね。
対してネイティブ世代の磯崎さんは、もう「モダンの文法」で思考できるわけで、外国語と日本語を参照させる必要がない。高度経済成長期、東京オリンピック以降はそれこそものすごい勢いでモダンな高層建築ができていく状況のなかで、ネイティブ息子は何を考えるか。
「外国語をベースにした人格形成のなかから、日本語的な自分の思考を抽出していく」という、「ガイジンとしてのオレから、日本人としてのオレを発見する」という、親父とは逆の見方で日本の伝統文化にアプローチしていくことになります。
なので、例えば都庁に関して言えば「モダン高層建築?もうオレそういうのお腹いっぱいだし。それより桂離宮みたいのが一周回って新しくない?」みたいな思考回路になる(と勝手に推測)。
だから、親父の「コンクリートの桂離宮を積み上げてすごい五重塔をつくる」みたいな発想に「げげ、親父センス悪くない?最初から桂離宮でいいじゃん」と思ってしまうわけですよ(勝手に断定)。
もはや大正ロマンらしきテイストを感じる、東京都庁舎の磯崎プラン。
僕としては、この異なる世代のギャップのなかに「日本的」に対する定義の違いを感じます。
丹下さん「オレは日本を高く立派に積み上げたい」
磯崎さん「そんなに積み上げたら日本じゃなくない?」
みたいな。で、磯崎さんの「Small is beautiful」的な発想は、すでにして日本通のガイジン的視点なわけですよ。デカくて頑丈な建物の国からやってきたガイジンが、小さくて儚い建築を見てグッとくる。それを「これが日本だ」みたいにオーサライズしていく。
故郷が一夜で灰になった丹下さんとしては、それは容易に受け入れがたかった。というか、「出た、上から目線!」みたいにイラッとする定義だったのかもしれません。
小さくて儚い日本は、空襲で「終わった」わけだから、その焼け野原から、ソリッドで巨大な「日本」を再生させることでしか、自分のアイデンティティを構築できなかった(と思う)。
でも、そういう気持ちって、実は全然普遍的な気持ちじゃないから、息子世代は「わかんね」となるのかもしれません。
和魂洋才を頑なに貫いた、由緒正しい日本人マインド
戦中流行ったスローガンに「近代の超克」というのがあったそうです(生まれてないから知らないけど)。
「日本的やりかたで、西洋に勝つ」みたいなことなんですけど、土台になっているのはやっぱり「西洋的知」とか「西洋的ボキャブラリー」だったりするんですよね。要はそういうのを上手く消化吸収して、日本的伝統の血肉にしてしまおう、全然違う文化を取り込んでしまおう、という大胆不敵な発想です。こんなスローガンが流行っているときに、丹下さんは建築家としてキャリアをスタートさせ、そして広島と今治が消滅した瞬間に立ち会ってしまった。
普通の神経だったら「無理。絶対欧米に勝てないワン。逆らわないようにするワン。」という風になりそうですが、なぜかより一層「近代の超克」に燃えまくってしまったのが丹下さんの一途なところだとヒラクは思います。
というか、この熱意、「近代の超克」というよりは「和魂洋才」という多分に古典的発想に貫かれたアティチュードなのかも。
徹頭徹尾オールド・スクールな日本人だから成し遂げられた「日本的モダン建築」の礎。それが丹下健三のスゴさなのだ!
(どことなく岡本太郎に似ているぜ!)