愛は理解することではないーぐるりのこと

このブログのタイトルは、シェイクスピアから取った「言葉、言葉、言葉」なんだけど、この映画のラストは、リリー・フランキーの「人、人、人。」というつぶやきで終わる。

ぐるりのこと。

思いがけず、いい映画だったんです。

おすぎの「日本映画はまだ死んでいなかった!」という絶賛も納得。

ストーリーをかいつまんで言うと、とても単純。

大学時代からの付き合いでなんとなく結婚した、ダメ男リリー・フランキーとしっかり者の木村多江。で、初めての子供を早くに亡くしてから、木村多江が壊れていく。それをリリー・フランキーがダメなりに見守る10年間の記録。

なんだけど仕掛けがあって、リリー・フランキーの仕事が法廷画家(ニュース番組でよく見る、犯人のスケッチを描くを仕事)で、90年代初めから日本を騒がせた猟奇殺人事件を見届けるシーンが夫婦のドラマに挟まれていく。宮崎勤の幼児殺人事件とか、オウム真理教のサリン事件とか。

普通の映画監督だったら夫婦のドラマと、法廷画家のドラマの二つの映画に分けると思うんだけど、それを一本に繋げる着想がすばらしい。

木村多江は、子供を失って心が壊れていく。

日本人の心も、バブル崩壊と共に壊れていく。

位相の違う二つの「崩壊」が、10年という時間で結び合わされる。

それに向き合うリリー・フランキーの態度が、「アナタ演技してますか?」と突っ込みたくなる程ひょうひょうとしていていいんだなあ、これが。

リリー・フランキーファンのヒラク姉は、「リリーさんは優しい」と常日頃公言しているんだけど、僕も「ぐるりのこと」を見てその意味がなんとなくわかる。(映画の役と本人が同じとは限らないんだけど)

ある嵐の夜、夫が仕事を終えて帰ってくる。

開け放した窓の前でびしょ濡れになっている妻。

「どうしたんだ?」

「私、ちゃんと生きたかったんだけど、全部ダメになっちゃった。」

ヤギかなんかを彷彿とさせるつぶらな瞳で、壊れた妻を見つめるリリー。

「ちゃんと生きなくていいじゃん。ちゃんとしてなくても、俺はお前のこと好きだし」

「本当に私のこと好きなの?私が死んだら泣いてくれる?」

「泣いたらそれが証拠になるのか?人間は義務感でいくらでも泣ける。」

と、訥々とつぶやくリリー。普通の恋愛で言えば、ザ・ダメ男の台詞である。

でも。

僕は、この男はとても「優しい」と思った。

それはなぜか?

ちゃんとしていないと気が済まない人間は、だらしない人間を理解できない。

だから、時としてだらしない人を問いつめたり、批判したりする。

同じように、だらしないリリーはちゃんとした木村多江が「わからない」。

わからないんだけど、でもリリーは木村多江の隣にいる。

ちゃんとしていてもしなくても、彼の愛は変わらない。

それが彼なりの優しさ。

愛とは、理解することではない。

理解できないものから、目を背けないこと。

その優しさが、夫婦の問題と、社会の問題に対する答えにオーバーラップしていく。

それが「ぐるりのこと」の秀逸さ。

「子供を喰った」と無邪気に口にする青年も、信仰心で大量殺人を犯す教団も、

リリー・フランキーは自分の妻と同じように「わからない」。

ただ座って、その顔を記録し続ける。

ひとは、2つの違った世界を生きている。

個人を超えた大きな社会の枠組と、なんとか日々をやりくりする小さな日常の世界。

自分では何ともできない世界があって、でもそこで起こっている事は自分の日常にも影響を及ぼす。

リリー・フランキーはそのやりきれなさに対して誠実だ。

世界全部を背負うことはできないかもしれないけれど、自分の隣の誰かは何とかできるかもしれない。

ラスト・シーン。

裁判が終わり、リリー・フランキーがいつも通り廊下に絵の具を広げスケッチの仕上げにかかる。

ふと窓の外を見下ろすと、人々が交差点を行き交っている。

それを見つめながら、彼はひとりつぶやく。

「人、人、人」。

最後にもう一度繰り返す。

愛とは、理解することではない。

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小倉 ヒラク

発酵デザイナー。1983年、東京都生まれ。 「見えない発酵菌の働きを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、全国の醸造家や研究者たちとプロジェクトを展開。下北沢「発酵デパートメント」オーナー。著書に『発酵文化人類学』『日本発酵紀行』など多数。