面倒くささと理想のはざまで。醸造家という奥深い生き方
沖縄の玉那覇味噌での一コマ。近々沖縄特集をやる予定
醸造家って、いい生き方だなあ。
発酵の世界に入って以来、そう強く思うようになった。
僕が今いる山梨には、ワインや味噌を始め、お酢や酒、パンなどなど、たくさんの醸造家がいて、日々彼らと時間を共にしている。地方行っても訪ねるのはもっぱら醸造家、海外行っても行き先は醸造メーカー。
なぜかというと、僕にとって醸造家という生き方が一つの理想だからだ。
いやまあ、現場はすごく重労働で、効率的に稼げるわけでもない。売り物ができるまで時間がかかるし、自然条件に振り回されるし、何より微生物というアンコントローラブルな生き物と日々向き合わなければいけない。
つまり面倒くさい。でも、その「面倒くささ」がキモなのであるよ。
確信を持っていうと、100年後にfacebookやgoogleが存在しているかどうかはアヤしいが、味噌屋は存在し続けている(もし存続していなければ、おそらく日本が滅びている)。
なぜそうなるのか。
ものづくりに関わるファクターが複雑で、しかも日々の暮しに長い時間をかけて根付いているからだ(あと単純に美味しいし)。近代化の歴史が始まってから、製造に関わる諸条件をコントロール可能にするために過剰なオートフォーメーションが進んだが、いま始まっているのは「人間らしさへの揺り戻し」だ。
・「◯◯っぽいもの」が文化を終わらせる。イノベーションは「人間らしさ」のために
面倒くさいことを「はいはい」といなしながら、それとなく楽しそうに仕事している醸造家は「働くとは何か」「暮しの喜びとは何か」という問いにヒントをくれる存在になる。
味噌やお酒をつくるということは「ものづくり」であると同時に、自分なりの「人間らしい、よりよい暮らし」を探す旅なのであるよ。
「ヒラク君、またそんな大げさがことを言うんだから」
そうかしら。イケてる醸造家に会って話をしてみれば僕の言っていることがウソじゃないって、すぐにわかるぜよ。