ワタシとワタシの間の密かな対話。女子ブロガーの才能はまぶしい。
いつも読むのを楽しみにしているブログに、チェコ好きさんとヒビノケイコさんのブログがある。この二人のブログを読んでいると「おお、才能あるなあ」と思う(←僕がこんなこと言うのも恐縮ですけど)。そしてとても懐かしい気持ちになる。それはどんな気持ちなのかというと、美術の予備校〜大学の文学部に通っていた時代の頃に感じたもの。
別に僕が改めて言うまでもないが、昨今「表現」に関して言えば女子のタレントに分がある(最近はビジネスでもそうかも)。
なぜかというと、思春期の早い頃から読書だったり映画だったり文化的リソースに接する機会が多いのと、同時代の男子に比べて表現に「虚勢」がないからだ。平たく言うと「オレってこんなことまで知ってんだぜ」という愚かなマウンティング行為に手間を割くことなく、「ワタシはこう感じ、ワタシはこう思う」というメッセージを軽やかに表現することができるからだ。
「また印象論ばっかりだなヒラク君は。エビデンスを示したまえ。」
そんなのねえよ。
で。美大や僕の通っていた早稲田大学の文学部はそういう「知的に卓越しつつチャーミングな女子」がたくさんいて、僕はいつも「才能あるなあ」と羨ましく見ていたのでした。
さて話を戻して。チェコさんとヒビノさんの才能は、おそらく学生時代からの知的営みが断絶することなく輝きを増している(と思う。たぶん)もの。学生時代の「まぶゆい才能を放っていたあの子」がハイブリッドに進化した才能だ。
たとえばチェコさんの文章をちょっと引用。
私自身の話をするならば、自分はかつて旅行者であったことはなかった、と思います。いつも現地に着いたら、自ずと帰ることを想定していました。だけど本当は、観光客ではなく、旅行者になってみたかった。でもそれが、どこまでも孤独で、危険であるということがわかっているから、進む一歩をためらってしまいます。旅行というのは、正真正銘の旅行を指してもいますが、人生の比喩でもあります。
ポール・ボウルズが出てくるあたりが激渋い。そして僕がこの下りがいいなあと思うのは「今こうであるワタシ」と「もしかしたらこうでないワタシ」の間での対話があるからだ。
20歳の少年少女が「社会に出る」「大人になる」ということを潜在的に恐れるのは「もしかしたらこうでないワタシ」とさよならしなければいけないことを知っているからだ(それは半分正解だし、半分正解ではない)。
学生の頃に輝いていた表現におけるタレントが萎縮するのは、「今こうであるワタシ」しか自分のなかに持てなくなるからだ。この落とし穴を回避するためには、職場に全人格を預けないような働き方をしたり、家庭や地域など「もしかしたらこうでないワタシ」を預ける場所を確保しておくことが必要だ。
(ちなみにごくたまに、仕事でとことんまで鍛え上げた「今こうであるワタシ」が完全崩壊した後にもう一度立ち上がってくるタレントというのもある)
そしてヒビノさんの文章もちょっと引用。
最近、わたしはまずじっくり覚えておきたい風景を心に溜めて、それからカメラを撮るようにしている。「記録と記憶は違う」そういった友達のことばを思い出して。SNSに投稿するために、カメラを構えるのは楽しい。視点を持つきっかけにもなる。だけど、いつしかひっくり返ってしまったとき、ゆっくりと眺めることを忘れてしまう。
子供の姿を残しておきたいと思ってカメラを構えているうちに、写真を撮ったという事実だけが残り、胸には何も残っていなかったら寂しいように。落ち葉がはらはら落ちる瞬間の優雅なスピードや、音や、風景の余韻は、感じ取ろうとしなければとどめることができないように。
「感性の育て方、知ってますか?」ビジネスのために表現を使う人と、表現のためにビジネスを使う人の違い | ヒビノケイコの日々。人生は自分でデザインする。
他人に向けての知識のひけらかしや、センスのある自分を誇示するマウンティング的な表現ではなく、「ワタシはこう感じ、ワタシはこう思う」という表現が瑞々しいのは、それが「ワタシとワタシの間での密かな対話」であるからだ。
この「密やかさ」が知的好奇心を惹き寄せ、同時に受け取る者の中にいるはずの「もしかしたらこうでないワタシ」へ呼びかけるきっかけを作り出す(余談だけど、こないだたまたまテレビで見たジブリの「思い出のマーニー」は正に「今こうである此岸のワタシともしかしたらこうでない彼岸のワタシの交歓」についてのお話だったな。彼岸の自分に会いに行くというのは、人間の精神活動における本能的な欲求なのかもしれない)。
この「内省的な感性」が、日々のルーティンのなかでぽっかり空いた読むひとの感性の穴を埋めてくれる。そしてその「内省的な感性」をWEBのフォーマットに軽やかに乗っけていくあたりに「才能あるなあ」と思うのであるよ。
これはもしかしたら、日本の文学史に脈々と受け継がれる「女性随筆家」の系譜なのかもしれないね(昭和初期の幸田文や武田百合子〜銀色夏生から小川洋子。僕が好きなのは須賀敦子さんと三浦しおんさん)。
しかしなんだ。文化において男子は本当に絶滅種なのかもしれんね。教養においても感性においても後塵を拝した男子ができることはもはや「つるむことで虚勢を張る」ぐらいしかないのかもしれない。
「何かよお、オレらの周り、すげえ新しいこと起きてる感じだからよお」
という「何かあるかも感(ほんとは特に何もないんだけど)」を演出する技術のみをオスの孔雀的にトレーニングし、ますます感性を消耗していくのであった…。
そしていつしかつるむ仲間もいなくなり、頭髪は禿げ上がり、足腰も満足に立たなくなった頃、ひとり部屋にこもって「うううへえ」とか「ぼへへええ」とかつぶやく言葉がなぜか妙な深みを持つようになった時にはじめて何か文化的に価値のある言葉なり表現なりを残すようになるのかもしれない。
その時が来るまで(←たぶん来ないけど)、僕はこの二人のような才能の輝きをまぶしく見ていたいと思うよ、ほんとに。
男子諸君、つるんでないで隠居しよう。
【追伸】ちなみに身内でいうと、パートナーの民ちゃんも素晴らしい文才があるのでそのうち彼女の名前で何かを著するようになると思われる。あと発酵妹の五味洋子ちゃんもきっとナイスなエッセイストの仲間入りするだろうね。と、僕がわざわざ言うことでもないんだけど、楽しみにしておりますぞ。