WEBにおいて「書く」って、誰にとっての何のため?〜コンテンツジャンキー化について考える

最近、このtassetasse.jpのWEB改変をしている中で、過去記事を改めて読み直しています。

で、気づいたこと。

自分にとって「書く」って、「思考を積み上げて磨いていく作業」なんだなあ〜、と。

今回の話題は「WEBにおいて、書き続ける意味」について。メタな話題にご興味ない方は、ぜひ他のプラクティカルな記事をどうぞ。

コンテンツを作り続けるモチベーション

ゆるーくこのブログを書き始めてからもう5年目、ライフワークの一部になってからもう1年半くらい経ちます。

そのあいだ、関心ごとも、ライフスタイルも、社会的立場も変わりました。

変わったんだけど、辿ってみると「思考の型」とか「クセ」みたいのはそんなに変わっていない。

武道とかダンスみたいにある型のなかでの「技の解像度」が上がりつつ、俎上に乗るテーマがじわじわとフォーカスされている…という感じ。

それを見るにやっぱり僕のブログを更新し続ける意図ってのは「思考の体力をつける」という、非ッ常に手前みそなモチベーションにあることがわかります。

一応色んな人が見てくれる前提なんだけど、根本は「己の思考訓練」という体裁なんですね。

さて。なんでこんなことをわざわざ書くかというと↓の記事を読んで、「はて、待てよ。ホントにそうかいな自分?」と疑問が湧いてきてしまったんですよ。

『いいネットコンテンツ』ってどこにあるの? SUGIURA Taichi weblog

以下、この記事を引用しつつ、ちょっとテーマを掘り下げてみます。

コンテンツジャンキーは、もはや言葉で思考することができない。

“ヒキのあるコンテンツがFacebookやTwitterで流れてくると、面白そうで、ついクリックしちゃいます。でもそのほとんどがドーピングみたいな刹那コンテンツで、気づくとそういうコンテンツの中毒になってる。感動するようなコンテンツをひたすらクリックして、もはやパンチドランカーみたいになってる。こりゃもう「コンテンツジャンキー」と名付けていいのではないでしょうか? 読む側もですが、作る側も一瞬にして消費されるので、作ることをやめられません。ぼく自身も、1ヶ月前に「いいね」して涙した動画や、こりゃ役立ちそうだと関心した記事のこと、何一つ覚えてない……(ぼくだけ?)。それは本当に自分にとって「いいコンテンツ」だったんだろうか? いや、たしかに心に染みた。でももう忘れた。。。”

WEBコンテンツって、DTPとか印刷なんかの高いハードルをなくしたし、企業のマーケティングや販促活動にも使えまくることがわかった。

だから、昔のテキストサイトでは素人が超マニアックな話題で盛り上がっていたものが、今やコンテンツ作りのプロがお金をかけてWEBコンテンツを作りまくっている。しかも、しっかり人の心を(刹那的にだとしても)つかむ仕掛け満載の記事がどんどんどんどん量産されている。

かくいう僕だって、アートディレクターという「コンテンツ作りのプロ」だし、コンテンツを会社の営業活動に使っている。

だから、この「コンテンツジャンキーを生み出す仕組み」に加担しているわけだ。

思考を鍛えるための言葉が、思考を奪う言葉になっていたとしたら…

“コンテンツジャンキーになると、少しずつ思考が停止してきます。暇さえあればスマホ見てるし、受信する言葉の量が凄まじいので、思考できなくなる。言葉は人間に思考させるために生まれた発明品。きっと、これまでもこれからもこれ以上のものは生まれえない、最高の発明品でしょう。

 

なのに今、その言葉の量が多すぎて、思考停止させるのに一役買っちゃってるわけです。だからと言って「紙に戻ろう」とか、「情報断食しよう」なんて、不毛だし、そもそもインターネット界隈は最近やたらに楽しいのでそんなことしたくありません。”

「そうそう、わかる〜」と思う人多いでしょうね(僕だって心当たりある)。

facebookとtwitterのタイムラインで流れてくる記事を読んで、はてなブックマークで盛り上がっているエントリーを読んで、ブックマークに入っているWEBマガジンサイトを3〜4個回ったら、それだけでとんでもない文字量、コンテンツ量になる。

しかもその一つひとつが、しっかり計算して労力をかけて作られているわけじゃないですか。

だから、「いいこと」「発見」「役立つ情報」があるわけです。それ自体は悪いことじゃない。なんだけど、それがある量を超えると、「読むだけで何かいいこと考えたような気になる」状態になる。それは言い換えれば「自分で思考してない」ということとイコールなんだよね。

(そもそもこの記事だって、友達の岩崎さんのタイムラインから流れてくる投稿読んで「おっ」と思って書いたわけだしね)

もはや、「自分がどのようにコンテンツを作るか」ということでは解決しない

ということなんです。

「だから、僕は思考停止ではなくて、思考を促進させるようなコンテンツを作りたいと思う」みたいに締めたらカッコ良さげですが、「良さげなだけで中身ないヤツ」に成り下がってしまうぜ。

今僕たち(←と勝手に括るけど)が直面しているのは、「言葉が大事だとみんなが言いすぎて、言葉の価値が大暴落した」みたいな、ワードインフレ状態が起こりはじめていることなのかも。

これもうね、個人の力では止められない。マスメディアのマス広告に法律/自主規制がかかりまくって、コンテンツとしての尖りが鈍っていくのと反比例するように、これからますますコンテンツの量は増え続け、コンテンツジャンキー化が進む。

僕もジャンキー的にコンテンツを読みまくり、それを切ったり貼ったりしてジャンキーのようにコンテンツを作り続ける。

そしてある日、「すごい量をさばく新しいリテラシー」が生まれるのか、それともバベルの塔が崩壊するのか。

それは God only knows.

なんだけど、最後に自戒の念をこめつつ、冒頭に戻る。

自分が書くことで、思考の解像度は上がっていく

これが自分にとってのブログを書き続けることの意味。

その上で「読む人の思考の解像度が上がるようなことを書く」というのは、期待しすぎないようにする。

例えば5年後。

バベルの塔が崩壊し、「もう言葉なんて何の価値もないね」となった時でも、まだ性懲りもなく書いてる。

それができたら、自分に嘘つかなかったということになるな。

(メタな話題でした)

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小倉 ヒラク

発酵デザイナー。1983年、東京都生まれ。 「見えない発酵菌の働きを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、全国の醸造家や研究者たちとプロジェクトを展開。下北沢「発酵デパートメント」オーナー。著書に『発酵文化人類学』『日本発酵紀行』など多数。