事業の成否を判断するモノサシは、文学性の高さになるかもしれない。
山陰ツアーで訪ねた群言堂やタルマーリー、木工アトリエのようび。ツアーの道連れである青木さんの北欧暮しの道具店、おのっちさんのgreenzもまた、「新しいモノサシ」を感じる事業だ。
「いきなり何を言いだすんだ、詳しく説明してくれたまえ」
うん。
例えば、群言堂やようびのプロダクトは素晴らしいデザインなのだけど、MOMAストアに行くと歴史的なグッドデザインが買える。タルマーリー以外にも天然酵母を謳ったパン屋さんはある。北欧暮しの道具店の商品は、楽天で探すともっと安く買えるし、greenzの記事は無料で読めるが、何百人もの人がお金を出して会員になっている。
ではなぜ僕(あなた)は、それにお金を出すのだろうか。
彼らの紡ぐ「文学」を読むために、お金を出す。なんなら、登場人物のひとりとしてその作品に出たいがためにそのサービスやプロダクトを買うのであるよ。
「文学としてのビジネス」を営む事業者は、エモい。
彼らの生き様と商品が不可分になっており、僕たちはその商品を通して彼らの希望や不安、高揚と挫折をリアルに感じ、いっしょにハラハラしたりワクワクしたりする。
この行為は文学作品を1ページ1ページめくっていくのとよく似ている。
しかもその作品はまだ現在進行形で、自分が関わることによってストーリーが変わる可能性すらある。ハッピーエンドになるのか、バッドエンドになるのか。「文学としてのビジネス」において、商品の供給者と消費者という従来の関係性は変質し、いっしょに作品をつくりあげる「同志」になる(より文学的に言うなら「同人」でもいい)。
「文学としてのビジネス」において、商品やサービスの未完成な部分、足りない部分は「クオリティの欠損」ではなく「物語が発生する装置」として機能する。「持たざる者である状態」を克服し、完成に向かって進んでいく様が同志たちに感動を与える。エモい。
このような事業のあり方がこの時代に生まれてくるには必然性がある。
彼らは「シュリンクする社会」におけるヒーローなのであるよ。
「いきなり何を言いだすんだ、詳しく説明してくれたまえ」
うん。
このブログの読者がご存知のとおり、日本の生産人口は減少し、したがってマーケットも縮小するフェーズに入っている。その状況においては、成長期の「右肩上がりで拡大する」というビジネスのロールモデルを採用するには無理がある。
そこで、オルタナティブなロールモデル=モノサシが必要になる。
それが「文学としてのビジネス」なのね。「売上高」とか「市場シェア」じゃなくて「文学性」でそのビジネスの価値を測る。
従来のモデルから見るとはなはだ曖昧なモノサシだが、その曖昧さこそ現代にフィットするのであるよ。
だってさ。文学作品の評価のことを考えてみてよ。
100万部のベストセラーの評価もあれば、5000部の専門書の評価もある。直木賞のエンタメ的権威もあれば、芥川賞の純文学的権威もある。ミステリーもあればホラーもあり、青春モノもあれば時代劇もあり、ラノベもあれば前衛もある。
文学の良さは、「評価の基準が曖昧かつ主観的である」というところに起因する。
何をもってして「文学性が高い」とするかは、ジャッジする人の好みによる。それと同じ視点で見れば、上場して何千億円の売上高の企業と、何千万円の小さな個人商店が同じ土俵に乗ってしまう。
ヒラクの私見だけど、これはとても良いことだと思う。全ての者が「右肩上がりの成長」を実現できないなかでも、僕たちは何かしらの事業を起こし、その土地の経済と文化を守っていかなければいかない。その時に「いかに文学性の高いビジネスモデルを実現するか」というモノサシは、感度の高い若者のやる気をモチベートする。
…と考えてみると、ビジネス書をやたらいっぱい読み込んでいる「意識高い系大学生」は実は文学青年であるということになる。彼らが社会に出ていないにも関わらずビジネスマンのふりをするのは、ビジネスにおける文学性を感じ取っていることにほかならない。
これから更に縮小していく日本のマーケットにおいて、ビジネスと文学の融合はさらに加速し、僕たちは何かを買うことにポエジーを見出すという未曾有の時代に突入していく。
皆さま、この驚くべき事実をご存知でしたか?(僕はこのエントリーを書くまで知りませんでした)