過去記事発掘フェスの最後を飾る8人目の推薦者は、ミュージシャンでありコミュニティデザインを仕掛け人であり、文筆家でもある「日常編集家」のアサダワタルくん。
5年ほど前に出会ってからずっと、お互いの活動に共感を抱きまくっている親友です。
5年を経て、アサダくんはその「何者だかわからない不定形な働きかた」に「コミュニティ難民」という卓越した名前を付け、「何者だかわからない仕事」にラベルを付けるという偉業を成し遂げました。
音楽であれ、文筆であれ、ワークショップであれ、アサダ流の真骨頂は「首のうしろになんかもやっとしているとこを丁寧にカリカリ掻く」という常人にはマネのできない芸。
時代が変動していくなかでこぼれ落ちていく様々なものに焦点をあて、ユーモラスな表現に落としこんでいく。その時に向かい合う、一般的にいえば「はみ出しもの」や「弱い立場」にある人たちへの眼差しはとことん温かい。
アサダくんのあり方を見ていて常々いいなあと思うのは、「オーサライズされた◯◯業界」の外側でキャリアを形成してきたからこそ生まれる発想の自由さと、妙に腰の低い「芸人感」。
僕も「◯◯業界」とは無縁の漂流生活を送ってきたなかで今の「発酵デザイナー」に辿り着いたわけなので、彼のような先達がいることは本当に心強く、勇気づけられることなんだな。
アサダくんを見ていると、究極のデザインは「自分がどうあるか」「社会がどうあるか」そのものを組み換え、再設計していくものだと思うのです。
(近日、彼の著作「コミュニティ難民」のレビューでもうちょいこのあたりのことを詳しく掘り下げてみる予定)
それではアサダくんの推薦文をどうぞ。
最近、『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』を見返しながら、なぜかヒラクくんのことを考えていました。 ヒラクくんは“菌”の内を通じて、この世界の何を見渡そうとしているのだろう、と。
それはそうと、エントリーの紹介をしますね。
2013年〜2014年頃。 僕は小倉ヒラクという人物を、拙著(『コミュニティ難民のススメ 表現と仕事のハザマにあること』/ 木楽舎)で描くために、ほぼすべてのエントリーを読み漁っていました。 そして、この「シンプルなきもち」という一篇の詩に、僕は大いに救われ、初稿の段階では実は最終章にまるまんま引用していたほどです。(諸々の調整の結果、その引用は断念したのですが)
僕はこの詩から、人が自身の人生において何を本当に持つべきかと選び採取らざるをえないとき、それでもその<荷>と別の<荷>とまた別の<荷>のハザマで失語しながら留まり続け、やがていずれの<荷>を選んだとしても果せなかった地平を駆け抜けることを待つ。そんな心構えについて、考えていたのです。
捨てることへと踏み切る強さを持てないその弱さ。つまり、未だ目標としての“夢”ではなく、“夢そのものをずっと見続けている状態”でいられることを夢見ること。
そんな自分自身が抱え続けてきた問いに対して答えが出たわけではないし、随分昔に書かれたこの詩を今のヒラクくんがどのように感じているかはわからないし、僕の勝手な思い込みかもしれないけど、 でも、僕はこの詩から「問いは抱え続けていい」という意味での「答え」を受け取った気がしています。
ともあれともあれ、お互い別々の地平から、その時々に吹きすさぶ風を読み合って、ふわりふわりと生きましょう。
アサダワタル:日常編集家。1979 年大阪生まれ。文筆・音楽・プロデュース・講師業。滋賀