絵画史のなかで「最も黒い名画」である、レンブラントの『夜警』。
二十歳の頃の話の続き。
大学の仲間たちとDVDメディアを立ちあげた後、僕はITの世界に別れを告げ、フランスに絵の修行に行きました(←改めて文章で書いてみると超時代錯誤ですが、本当にそうだったのよ)。
でね。絵の修業に行ったわけなので、パリの美術館に足繁く通って古典の模写をよくしていたんだね。
最初はそれこそボッティチェッリとかヴェラスケスなんかの超クラシックの模写から始めたんだけど、最終的に一番たくさん模写したのがレンブラントだったんだな。
黒色には、無限のバリエーションがある。
レンブラント。
17世紀オランダという、絵画史的にいうと中途半端な場所&時期のこの画家の何がすごいか。
トリビア的な細かい知識は全部棚上げて言えば、「黒の解像度がスゴい」ということに尽きる。油絵はもちろん、例えばレンブラントの素描や版画を時分の手でスケッチしてみると「ぬぬぬ…!何だこの黒色のバリエーションの幅広さは!!」ということに気づく。
実は、僕たちの感性は「言葉」に深く支配されている。
「黒色」というボキャブラリーは一つしかない。なんだけど、自然現象をよく観察してみると、そこには「無限のバリエーションの黒」というものが存在している。なんだけど、現実的な世界ではたくさんの黒色を細かく分類する必要がないから。その無限のバリエーションをざっくりと括って「黒色」と定義している。そうやって「黒は黒だ。そんな細かいことゴタゴタ言ってるヒマあったら働きなはれ」というロジックができていく。
まあね。大半の仕事において「無限の黒のバリエーションを分類できる」なんていうスキルはいらないよね。だけどこちとら「絵を描く仕事」なわけだから、「黒という概念を細かく割る」というスキルは死活問題だったりする。
では話を戻して。
最初は何の気なしにレンブラントの版画を模写したのね。そしたらば、「あれれ?ちゃんと書き込んだハズなのになぜかレンブラントっぽくない。これはなんじゃろな?」と思ったんですね。
答えからいうと、「レンブラントの本質は、線やフォルムではなくて、白黒の微細なグラデーションにある」ということだったんですね。
例えばピカソの絵って、あの大胆な線とかフォルムの感じを見ると「ピカソっぽい」と思う。モネの絵だったら、色使いや筆のニュアンスでわかる。手塚治虫だったら瞳の造形やヒョウタンツギでわかる。こういう「キャラクター要素」は個性がわかりやすい。
「色の質感」が画家の個性になる。
版画だとなお「白と黒のコントラスト」の繊細さが際立つ。
なんだけど、レンブラントは違う。
僕たちがレンブラントを見て「レンブラントっぽい」と思う要素は、その「黒の質感」にある。素人には到底辿りつけない「黒という色に対する解像度の細かさ」なんだ。
だから、レンブランドを模写していくというプロセスは、ひたすら「レンブラントが見ていたであろう、『一見すると真っ暗に見える世界』のなかの『明るい→暗い』のグラデーションを仮想体験していくか」ということだったりする。レンブラントの絵を何度も何度も模写していくことで「以前の時分だったら同じ黒色だと思っていたAとBの違い」がわかるようになっていく。
えーと。この感覚をどうやって伝えればいいんだろ。
音楽に例えてみよう。ベートーヴェンの曲って、みんな「メロディ」で覚えていると思うんだよね(ダダダダーン!っていう『運命』のメロディとか)。なんだけど、ドビュッシーの曲の場合、みんなメロディは思い出せない。思い出せないんだけど、音の質感でなんとなく「ドビュッシーっぽい」と思うんだね。
もうちょっとポップミュージック寄りで言えば、「スピッツらしさは、ボーカルの声質である」とか、「ケミカルブラザーズらしさは、バスドラムの音圧の高さである」とか、「QUEENの個性は、フレディ・マーキュリーの歌ではなくむしろブライアン・メイのギターの音色である」みたいな(←これはちょっとマニアックすぎるか)。
絵画で言うところの「線」「フォルム」、音楽でいうところの「メロディ」というのはキャッチーな要素。
だけれども、実は「質感」という要素が、表現の質を決定づけていたりする。僕はレンブラントをお手本とすることで、「質感」という頭では理解しきれないことの奥深さを知ったわけなのでした(ポイントは「知識」として知ったわけではなく「手を動かして知った」というとこね)。
デザイン業界に関わるそこのアナタ!
そうなんです。これがいわゆる「シズル感」の正体なのよ。