音楽好きの大学の先輩に連れて行ってもらって好きになった渋谷宇田川町のBar Bossa。
いつも心地良い音楽がレコードでかかっている、お酒のセレクトも雰囲気も素敵なお店だなあと思っていて。で、こないだデザインの目利きの安西洋之さんと渋谷で会った時に「ちょっとワインでも」ということでBar Bossaに一緒に行った。
そしたら安西さんが「ここのマスターって、WEBマガジンで人気のコラムニストだよ!」と教えてくれた。帰り際、レジの横に置いてあったマスターの林さんの本を買って帰りの特急あずさで読み始めたら、そのまま夢中で読み終わってしまった。
その本のタイトルは、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』
バーカウンターにやってくる妙齢の男女の恋愛エピソードのオムニバスだ。主人公はバーのマスター。そこにワケありの男女がやってきて、マスターおすすめのお酒のグラスを傾けながら、恋の話をし始める。報われない恋もあれば、既婚女性がはるか年下の男の子に片思いする恋もある。各エピソードの前後には、ジャズやボサボノヴァの名曲の歌詞が引用され、十人十色の恋のエピソードと重ね合わされる。
「へえ〜。やっぱりバーテンダーやってるとこんなに他人の色恋の話を聞くもんなんだねえ」
と思って読み進めると、やがてこの本が「恋愛小説」であること、虚構の物語であることに気づく。
それはなぜか。
話ができすぎているからだ。死んだお母さんから譲り受けた口紅をつけてデートに行ったら、どんな素敵な男の子もその子に夢中になる。新人女優の同級生を勇気を出してデートに誘ったら成功して、家に芸能事務所のスタッフが土下座して誤りにくる。バラバラだったエピソードが、ワインのラベルの絵を通してつながったりする。
いくらなんでも、できすぎている。
そしてもうひとつ。
カウンターの座る登場人物たちの声音。彼女/彼たちの声音は「対話の声」ではない。「マスター聞いてよ」と始まったとしても、その声は返事を求めることなく、グラスの中の泡のように消えていく。問わず語りよりもさらに儚い、まるで夢の中で響くような声音だ。
この儚さは、虚構の儚さで片付けていいものなのだろうか?
僕はこの小説の登場人物のように、一人でバーカウンターでお酒を飲むのが好きだ(残念ながら気の利いた恋バナはできないけど)。
で、カウンター座って何をしているかというとだな。グラスを傾けながら物思いに耽る。日常のコミュニケーション過多を切断して、黙って静かにお酒を飲む。
この瞬間がたまらなく幸せだったりする。
なぜ幸せなのかというとだな。日々のリアリティから離れた自分の姿を好き勝手に想像できたりするからなんだよね。一ヶ月どこか外国行ってバカンスするのでもいいし、自分の趣味にひたすら没頭する生き方を想像してもいい。
あるいは。
かつて好きだった誰か、まだ見ぬ誰か、手の届かない誰かとの身を焦がすような恋を想像したっていい。
バーカウンターに座っている間だけ、人は自分の望む人生を夢見ることができる。
薄暗い照明のなかで「語られるはずだったストーリー」に耳を傾けることができる。
この本の最後に、著者であるバーテンダーが「これは小説だ」と種明かしをするのだけど、僕はこのできすぎたエピソードたちが著者のアタマの中だけで生まれたフィクションであるとは思えない。
もしかしたら、彼女/彼たちは実際にBar Bossaにやってきたのかもしれない。
でもね。たぶん
「マスター、私の恋の話を聞いてくれますか?」
とは言わなかったんじゃないか。バーカウンターでお酒を飲みながら、夢見るような目で沈黙しながら、ありえたかもしれない幻の恋の映画を見ていた。そしてバーテンダーも一緒にその映画を見ていたのかもしれない。
この本に描かれたエピソードは「実際に語られた話」ではなく「語られるはずだった沈黙」から生まれたのではないだろうか。
素敵なバーには素敵なストーリーがある。
そしてそのストーリーは、沈黙の声によって語られる。
バーテンダーのかける古いレコードは「ありえたかもしれない恋」のサイレント映画のサウンドトラックだ。この本で語られる恋のエピソードは、Bar Bossaのカウンターで過ごす一晩だけカラフルに輝き、バーを出た瞬間に色あせて消えてしまう。
甘い感情は長続きしない。ひとときの夢を再生しておしまいのレコードや映画のように。日常の瑣事のなかですぐに見失ってしまう甘い気持ち、ひとときの夢を取り戻しに僕たちはバーカウンターに座るのかもしれない。