時が解決してくれることがたくさんある。若い頃にはわからない時間の功罪。
ちょっと前の話。
僕の某連載企画を担当してくれている編集女子、Y本さんが山梨に遊びに来てくれたときのこと。普段しないような神妙な顔をしているので何があったのか聞いてみたらば、地域コミュニティでの人間関係や仕事のことで悩んでいるらしく、本人曰く「ワタシ…こじらせてるんです!」とのこと。
詳しい内容はプライベートな事なので秘しておくとして。
ざっくり言えば「キャリアも恋も人間関係もボタンを掛け違えて、しかも各領域の弊害が相互乗り入れしてこんがらがってるぜベイビー」状態。
まあそうね。20代半ばを過ぎたお年ごろだからね。
自分の人生に関わるファクターは段々複雑化し、「見た目がいい」とか「優しい」とか「お金いっぱいある」とか「なんか正義感ある」とか「アタマの回転早い」なんかの「二十歳の評価軸」は社会の歯車のなかでは大したことないパーツでしかないことが発覚し、「ではワタシは何を信じて生きていけばいいのか…」と呆然としたところで、「心配しないで僕のバレンタイン、キミはキミのままでいいんだよ」と微笑むタヌキやキツネに化かされて、気づいたら村の外れの泥田んぼの中でひとり転げまわっていた…
ということ、よくありますよね(←別にY本さんのことを言っているわけではないが)。
この「泥のなかで転げまわるお年ごろのボーイ&ガール」がやらかしがちな事がある。それは「焦って自爆する」ことであるよ。
自分のなかでちゃんとした判断を下す前に焦って行動だけ起こし、それが面白いようにことごとく裏目に出る、というループにはまって短期間で3〜5年ぶんぐらいのライフパワーを消耗してしまうということがある。
なぜそのような事になってしまうのだろうか。
「時間」というものの価値を見誤っているからだ。
時間には「功罪」がある。
生き急ぐヤングたちは時間の「罪」ばかりが見えてしまう。「今やらなければ」「もう後戻りはできない」「一日でも、一秒でも早く…!」と焦燥感に囚われているうちは、時間というものは「チャンスを奪い取る死神」にように見えてしまう。
ところが時間は同時に「慈悲深い神」でもある。
人生には耐え難いほど苦しいことや恥ずかしいことや屈辱的なことがある。しかし時間が経つと、その痛みの大半は消えていく(手前みそですが、一年ちょっと前に自分が「経営していた会社を自分から辞める」という判断をした時に、もう死ぬんじゃないかと思うほど苦しかったが、今はもうすっかり平気だったりする。人間ってスゴい)。
今この瞬間泥沼でのたうち回っている自分と、半年後、一年後、3年後の自分はまったく違う人間だ。なぜ違う人間になるかというと、時間が自分の心のささくれだってゴツゴツした部分をゆっくりと磨いて丸くしてくれるからだ。そのプロセスを通して、あれだけ執着していたこだわりが、ただの先入観にすぎなかったことに気づいたり、YES / NO のあいだに違う可能性があることを理解したりする。
「今すぐ動かなくては…!」
「この瞬間にもチャンスを失っている」
変化の激しい時代では、この強迫観念は「絶対正義」と取り違えられる。でも本当はそんなことはない。時間にヤスリをかけてもらって、丸くてピカピカになるまで待ったものを選んだっていいんだと僕は思うんだよね。座してただ待つ。時間の「罪」ではなく「功」を信じる。そういうことが大事になる時も、人生には確実にあると思うんだよね。
「そうやってタラレバ言っているうちに、オリンピックを孤独に迎えることになるタラ!」
…というタラレバ娘さんの叫びが聞こえてきたところで、今回はおしまい。
Y本さん、幸せに生きておくれ。