性善説と性悪説、社会を動かすのはどっちだ?「信じ合う社会」へのいばらの道。

性善説と性悪説について。

こないだ東ヨーロッパ行って驚いたのが、バスに乗る時に切符がなくても乗れてしまうシステム。これはつまり「みんな当然切符持ってるよね。だからチェックしなくていいよね」という性善説システムで社会が動いているということです。

でね。実はこのシステムは管理コストを省ける合理性があったりする。
ヨーロッパに住んでいた時いろんなものが性善説で動いていることにビックリしました。なぜかと聞くと「市民はすべからく成熟していること」が前提の制度設計だからだそう。

性善説と性悪説の合理性の違い

性善説の制度設計は「悪いことしてないかチェックするコスト」がかからないので実は合理的だとも言えます。

対して日本は社会の基本原理が性悪説で動いているかもしれません。
例えば朝の通勤電車の遅延証明。いい年した社会人が「私はウソついてません」と会社に届けるなんてよく考えたらヘンな話です。誰かがズルをするロスは防げるけど一方ではチェックするための手間とコストがかかる。

性善説で動くシステムとどっちが合理的か。
性善説が不合理になるのは「ズルするロスが管理するコストを上回るとき」。
性悪説が不合理になるのは「管理するコストがズルするロスを上回るとき」。

つまり「みんなズルをする人間と見なすかどうか」でどちらの人間観を取るかが決まるわけです。日本の制度設計は「市民はみんなズルをする」前提です。

ネット上にあらわれるアナーキーな性善説

で、ここから本題。
ネット上で新しく登場するサービスは性善説で設計されているものが多いように感じます。特にベンチャー起業がリリースする型破りなサービスは性善説の極地。
楽観的なビジョンで生み出されているという理由以外に、人員や予算が小さいので管理コストを抑えるための合理性もありそうです。

クラウドファンディングを筆頭とする互助的なフィンテックサービスは性善説でないと意味をなさない
この「アナーキーなまでの性善説」は性悪説で動いてきた日本人のマインドをザワつかせます。「こんな仕組みにしたらズルするヤツが溢れて社会が崩壊するのでは?」というように。

考えてみれば、僕と同世代かもっと下の新しい世代が立ち上げる事業は、ネットかリアルを問わず、性善説かつ互助的な思想を持ったものが多い。それが社会のインフラに浸透していくためには「無意識に刷り込まれた性悪説マインド」を凌駕していくことが必要です。

…とか書いてみたんだけど、なんかムズカしそうだよね(>_<)

クラウドファンディングやpolca、VALUのようなサービスは、世代によって受け取られ方が全然違うものになるでしょう。何十年も電車の遅延証明書を出してきたおじさんは「見返りを求めずに投資をするシステム」を理解するのが難しいかもしれません。「契約」ではなく「応援」を選ぶ価値観が、余裕がある時の慈善活動ではなく人生の中心を占めるという価値観。

「僕こういうことしたいんだけどお金足りない」
「そっか。じゃあ僕の使ってね」

というやり取りは契約じゃないので拘束力はない。

「きっとアイツはやり遂げるし、別に僕に直接お返しがこなくてもいいや」

というのが性善説の世界。「疑う」ではなく「信じる」ということで社会が回る。
他者を信じることで積み上がる「信用」を社会資本として自分の人生を設計する。

フィンテックやSNSが生み出す「性善説」の世界は、必然的に僕たちの成熟度を試すモノサシになります。悪意を持って使うと短期的には仕組みをハッキングして個人的な利益を得ることができますが、仕組み自体が存続できなくなります。「キミのことを信じてるよ」と言われた時、真に自分が試される。

「お互いを信じあう社会」への道はけっこう茨の道かもしれません。
でも、僕たちの世代がここのハードルを超えないとあんまり生きやすい社会は待ってないかもしれないですね。だって、管理コストを維持するだけの体力が日本に残っているか微妙だし、また何十年も電車の遅延証明書をもらいにいくんだよ?

ブロックチェーンのようなテクノロジーの発展が、外部から僕たちの行動規範を善なるものへと変えてくれるのか?それとも性善説とともにテクノロジーを否定して前近代的な世界へ退行するのか?あるいは僕たち自身が自発的に新しい社会の規範を生み出していくのか?

「外部からの変化を待つ」か「自分から変化を起こす」のか。個人の行動が試される時代だぜ。