「人間と自然の共生」はファンタジーだった。パラサイト・イブに見る「科学とは何か」問題。
瀬名秀明さんの『パラサイト・イブ』を久々に読み返した。
なんで今さら?って話なんだけど、実は微生物研究の一環として読みなおしてみたのですね。僕の専門の「発酵学」というのは隣接する領域がとても多い。微生物の発酵作用を原理的に理解するためには、「酵素とは何か」、「タンパク質とは何か」、「免疫とは何か」、「DNAとは何か」、「分子/原子とは何か」というように、どんどんミクロの世界に入り込んでいくことになる。
そんなタイミングで『パラサイト・イブ』を読み直すと、15歳くらいの時にはわからなかったことをたくさん発見できるのだな。
研究における仮説を、小説という形態でストーリー化する
昔読んだ時は、得体の知れない生き物が襲ってくる、コワい!なんかセクシーな描写がいっぱいある、エロい!という事ばかりに意識がいきましたが、これは「ホラー小説」としてのルールを守るための「押さえなければいけないお約束」であって、作者の本意は別のところにある。
では作者の狙いは何かというと、「科学の研究における『仮説』を、小説にして展開してみたらどうなるか?」というトライアルなのであるよ。
「ミトコンドリア」や「DNA」という現在進行形の学問では「答えが出ていない課題」がいっぱいある(微生物の世界にもいっぱいある)。わからない事に関してはまず仮説を立てるのだが、オフィシャルな答えがないわけだから、「想像力を働かせる余地」がいっぱいある。
つまり「仮説を立てて、それに沿って現象を考察する」という行為は、仮説を立てた者のイマジネーションを駆使するという点において、「小説を書く」ということに近接する。
「ミトコンドリア」という「よくわらないことがいっぱいある領域」は、研究の仮説を物語化するためにはうってつけの題材だった(←文献が残っていない古代史の方が漫画や小説にしやすいのと同じ原理)。
この小説において、専門用語がいっぱい出てくる必然性はつまり『本来は論文であるものを小説化している』という構造から出てくる。
「でも、論文と小説は本質的には違うだろ」
果たしてそうだろうか?「未知のものに対して、ああかもしれない、こうかもしれないと突拍子もない思いつきを述べる」という点において、論文と小説は同類なのではないのだろうか?好奇心とイマジネーションを惹起させるという意味では、どちらも「エンターテイメント」なのではないだろうか?
という、作者の知的な挑発が感じられるのであるよ(オトナになると、こんな風に文学作品を味わえるようになるのね)。
「人間サイドの自然」と「人間サイドでない自然」
もう一個別のおはなし。
僕が読みなおしたのは、新潮文庫版。単行本が発刊されてから10年後に出たこの文庫には、作者によるあとがきがいっぱい追加されている。で、これがすっごく面白いんだよね。
『パラサイト・イブ』が出てからの作品に対する評価とか批評を集めてグラフにして定量化したりしている(このへんも科学者っぽくて良い)。
で、批評家のコメントもいくつか冷静に分析しているのだけど、僕が「ううむ」と考えさせられたのは、文学者の池澤夏樹さんのもの。以下引用。
『科学が、揺るがない拠点としての自然に向かうものとすれば、自然を人間に都合よく変えようとするのが技術。いまあるのは、面白さのために前提をかえる技術的発想の小説ではないか。しかもその約束ごとにすぎないものを現実と信じたがっているようだ。人類とは別の知的生命体、新ウイルス、化け物、別の自分が存在すると仮想するのは、そんなものでも存在してほしいからだ。人間と自然との対話能力を失った、神なき時代の人間の寂しさの表れとみえる』(由利幸子氏まとめ「朝日新聞」九五年七月二九日)
さて、いっけん思慮深く見える発言だが(←こないだもこんな物言いをした気がする)、果たしてそうだろうか。瀬名秀明さんの反問も一部引用。
科学と技術を混同してはならない、とはよくいわれることだが、科学の中にはどうしても両者の境界が曖昧になってしまう分野がある。例えば看護学は科学だろうか、技術だろうか。薬学はどうか。微細な構造へと突き進んでいく生命科学はどうか。これらの分野では揺るがない根拠を求めようとすればするほど、揺らいだ世界が顕在化されてくる。しかしそれこそが今後の二一世紀科学の面白さではないのか。
池澤夏樹さんと瀬名秀明さんの齟齬はいったいどこに起因するのだろうか。
それは「自然のセオリーを人間が理解できる」という前提と「自然のセオリーは人間が理解できない」という前提の違いから起こる。
池澤夏樹さんのいう「人間と自然が対話できる」という前提は、果たして本当かどうかという問題だ。
高校生の時の自分は、池澤夏樹さんの世界観を支持したかもしれない。けれどもミクロの世界の研究をしている現在の自分は、瀬名秀明さん側に転身したのであるよ。
21世紀の「自然」は、人間の認識の限界を超えてしまった
こうやって文章で書いていても違和感しか感じないのは、「超ミクロの世界で起こることは、人間の生身の世界とルールが違いすぎる」という原則から発生する。漫画「度胸星」では、4次元の世界に三次元の人間が迷いこんで異常な事態が起こるが、ああいうことが何十億分の1ミリの世界で起こっている。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2015, 9月 1
「原子」というものを発見するまでは、ある程度化学的な法則性を発見しながら「生身の人間の思考」でいけた。しかし「原子の中身」に入り込んだ瞬間、アインシュタイン的な、時間と空間がトランスフォームしまくる異世界が待っていた。その世界に入り込んだ人は、もう普通の人間の頭ではいられない。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2015, 9月 1
物理学はもちろん、微生物学の世界でも「生身の人間の思考」を手放さないと理解できないことがたくさんある。この「わかりづらさ」は、ニーチェや吉本隆明の哲学書を読んだときの「わかりづらさ」とは全く別物で、複雑だったり難解だったりするわけではない。「想像も及ばない世界」の出来事だからだ。 — 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2015, 9月 1
前にこんなことをつぶやいた。これは正に「池澤夏樹さん的自然観」からの離脱なのであるよ。20世紀から現在に至るまで、超ミクロ/超マクロの世界を研究しまくったら「人間の認識能力では理解できないことが現実を支配している」ということがわかってしまった。
そういう意味で、20世紀は「人間と自然が対話できた時代の終焉」と言える。
科学者は、ある特定の領域をひたすら突き詰めることで、限定された領域でのみ「人間の限界を超えた世界」を理解できるようになる(100mを超速で走るウサイン・ボルトのように)。しかし彼の言っていることは、他の「フツーの認識能力のひと」には伝わらない。
池澤夏樹さんの憂慮する「科学と技術の隔離」はこのような背景から必然として生まれた。人間の知の進化は、ある臨界点を超えたあたりで「自然のセオリーは、僕たちの認識の限界の彼方で機能している」ということを明らかにしてしまった。この瞬間に、コミュニケーションをすれば共生できると思われていた「自然」というものが、人間よりもはるか上位のセオリーで存在しているということがわかってしまった。
この時点で、知性的な人間が取る態度は大きく分けて2つだ。
1つは、この臨界点の向こう側に「立ち入り禁止」の札を立てるという倫理優先の振る舞い。もう1つは、「カオスの中での進化」を目指すという好奇心優先の振る舞いだ。
この違いをさらに極端に言えば「人間の領域で立ち止まる」か「人間の領域を超えようとする」かの選択だ。
「このままだと人類は滅亡する」
「だから江戸時代に戻ろう」
意地悪な見方だが、池澤夏樹さんの物言いはこのようなロジックの延長線上にある。それは確かに正論なのだが、実は「立ち入り禁止区域の先にある別の可能性」を考えないフリをしているのもまた確かなのだ。
「やっぱ人間は人間らしい世界に住まないと」と教わって暮らしてきた人文系のヒラク君は、発酵デザイナーとして、ミクロの世界という「立ち入り禁止の領域」に足を踏み込みつつある。人間の認識を超えた世界を覗いてみたいという好奇心でソワソワしているのであるよ。
そしてその先どうなるかというとだな。
このブログに書かれることがだんだん「ワケの分からないもの」になり、誰の共感も得ることなく、SNSのタイムラインからひっそりと姿を消していくということだな。
さよなら、デザイン業界&メディア業界。僕はもう微生物界のひとになります。
— 小倉ヒラク (@o_hiraku) 2015, 10月 29