万能感という呪い。

デザインや微生物学という、僕が今関わっているテクノロジーはとても「現実編成力」が強い。自分の内的な思弁にとどまらず、実際に現実を変えてしまう力がある。

こういうものに深入りしていると、ふと、これを使えば「何でもできる」「何でも変えられる」という万能感を感じることがある。

この「万能感を感じている自分」が発するメッセージは威勢が良くて受けがいい。その受けの良さがまた万能感を助長する。

「◯◯をしていないヤツは、もう時代遅れだと思う」

「◯◯の波が、もうすでに世界を変えつつある」

「全てはつながっている。そのカギは◯◯にある」

なんてメッセージを日々メディア上で見ると「えっマジで?ヤバい俺どうしよう」とソワソワしたりするじゃん。

しかしだ。

実際にこの万能感はまやかしで、専門知を極めた人ほど「自分ができることは限りなく限定的である」ということを実感している。

これは、「一体何のために知識を得るのか」というモチベーションの問題に帰結する。

日々の現実で感じている己の無能感を払拭するためにアクセスするのか、あるいは何かを知りたいという好奇心によってアクセスするのか。

前者では「万能感を得るための道具」として専門知がドライブする(そういう意味では、精神世界に深入りしすぎるセラピストも、最新技術にハマるギークも同類だ)。

後者では「問いを深めているプロセスを愛でる」というかたちで専門知がドライブしていく。

・「わかる派」と「わからない派」。

厄介なことに、後者のつもりではじめた人も、自分が「フツーの人が知らないことを知る」という事を重ねるうちに、前者のトラップにはまっていく(と思う、たぶん)。

このトラップにはまる地点は「中途半端に知っている状態」。

生半可な状態ほど万能感に支配される。この状態を抜け出すには「すっぱり止める」か「とことん極める」かどちらかなのであるよ。

「知」というものは恐ろしいものだ。人間を謙虚にするためのものであるはずが、傲慢さを助長する道具にもなり得てしまう。



あー僕、ダサいヤツになりたくないなあ。

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小倉 ヒラク

発酵デザイナー。1983年、東京都生まれ。 「見えない発酵菌の働きを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、全国の醸造家や研究者たちとプロジェクトを展開。下北沢「発酵デパートメント」オーナー。著書に『発酵文化人類学』『日本発酵紀行』など多数。