最近、漫画『ちはやふる』を熟読している。
百人一首の競技かるたを題材にした青春漫画で、結論から言うと稀代の名作であるよ。
しかも、僕が大好きな『文化人類学的な学び』がインストールされまくっているタイプの。
『ちはやふる』について語りたいことは山のようにあるが、今回は『ことばの身体化』と『才能とは何か』の2つのテーマに絞って考察してみたい。
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ことばを身体化する
「ちはやふる」は、小学校の幼なじみのちはやちゃん、太一くん、新くんの三人が競技かるたの世界で切磋琢磨しながらそれぞれに恋心を募らせる…という、王道少女漫画と王道少年漫画を合体させたハイブリッドなストーリーになっている。
物語の大半は「競技かるた日本一を巡って老若男女がバトりまくる」という少年ジャンプもビックリな熱戦が繰り広げられる(←でも絵柄は少女漫画)。
構造的に見てみると、この競技かるたにおいて『勝者となるためのルール』が設定されていることに気づく。
それは、百人一首という800年以上昔のことばを身体知にした者が勝つ、というルールだ。
古代、神からの予言として登場した中国・日本の言語は、現代に下るにつれてプログラミングコードのように抽象化・記号化されて運用されるようになる。ふだん僕たちが使っていることばも大半が「記号としての意味交換」だ。
しかし、競技かるたの世界では「記号としての言語運用」では勝つことができない。なぜなら「リンゴ」という記号は「リ・ン・ゴ」と三文字が明示された後でないと機能しないからだ。それでは遅すぎる。「リ・ン」と読まれた後に「ゴ」と続きそうな「ン」の微妙なニュアンスを感じ取らなければいけない。
その「ン」は、音の高低・音色・イントネーションなど「フィジカルな要素」で構成されている。そのフィジカルな要素に加えて、リンゴという概念が現れてきそうな「前後の文脈」というものがある。
『ちはやふる』において、ことばは記号ではなく、豊穣なメタメッセージが内包された身体知なのだよ(それを表象するのが、かなちゃんの百人一首の解説)。
となると、競技かるたとはつまり「ことばを身体化する」という訓練であることになる。かつて、言語と身体が不可分であった時代のことばと自分を接続することで、800年前の身体知の依代(よりしろ)となる。その強度によって勝者が決まる。
これが『ちはやふる』における競技かるたの基本ルールだ。
無双の才能は、最強ではない
この漫画には、二人の『無双の才能』が登場する。
男子チャンピオンである周防名人と、女子チャンピオンである若宮クイーンの二人だ。
周防名人は「圧倒的な耳の良さ」、若宮クイーンは「文脈の異常なまでの理解の深さ」を持つ者として設定されている。
各々のタイプは違えど、この特殊な資質によって普通の人間よりも深く「800年前の身体知」に肉薄することができる。
それでね。ここからが『ちはやふる』の特異かつサイコーなポイント。
ストーリーの中心となる、ちはやちゃんと太一くんは「無双の才能」を持つ者ではない。ちはやちゃんは耳が良くて、太一くんは読み筋がいい。しかしそれだけでチャンピオンになれるわけではない。
「無双の才能」を持つ者は、最初から「自分のゴールがどこか」を理解している。かるたを始めた初期の時点から「勝つイメージ」を身に付けている。それは言い換えれば目的地点に最短距離で行ける、ということだ。無双の才能には、迷いがない。
翻って、主役のちはやちゃんと太一くんはどうかというと、負けまくるのであるよ。強者に打ちのめされ、自分の才能を疑い、迷いまくる。少年マンガだったら考えられないことだ。
しかし、この設定のなかに文化人類学的学びがある。
無双の天才は、学びのダイナミズムから除外される。自分に必要なものを最初からわかっているということは、手を伸ばしてそれを掴むこと以外の選択肢を選ぶ必要性がない。つまり「先生」がいないのであるよ。
ここで重要な人物が登場する。原田先生だ。
原田先生は、「かつて」才能ある新星として競技かるた界に登場したが、名人になる機会を逸したまま中年を迎える。周りが「あいつのピークは過ぎた」と噂するなかで、円熟の試合運びで周防名人をあと一歩で打ち負かすまでに肉薄する。
原田先生は「才能を持たない者」が強くなる方法を長い間かけて考えぬく。その答えは「たくさんの武器を持つ」ということと「たくさんの仲間を持つ」ということだ。
たくさん迷って、たくさんの相手と競い合ったうえに獲得する「経験」で「才能」を呑み込もうとする。名人戦の最終局で、今まで相手を見下したかるたをしていた周防名人は、休み時間にヒゲを剃り、髪を整えて登場し、原田先生に深く礼をする。
これはいったい何を意味しているのだろうか。
周防名人ははじめて「予想の斜め上のやりかたで、自分の才能を呑み込む相手」に出会ったのであるよ。この時はじめて周防名人は「深い学び」に立ち会うことになる。
この瞬間に、原田先生はちはやちゃんと太一くんにとって「最高の先生」となる(僕は少女漫画においてこんなにも偉大な『おじさん』の描かれたことを他に知らない)。
向かい合う者の身体とシンクロする
一方で、若宮クイーンはどうか。主人公の幼なじみの新くんに敗れるのであるよ。
『ちはやふる』において新くんはどのような存在であるかというと「最強を体現する存在」だ。永世名人である新の祖父は「かるたにおいて才能は大事じゃない。才能のあるヤツほど崩す手がある」と新くんに教える。
これは言い換えれば「無敵のカードを一枚持つ者は、そのカードしか持つことができないので負ける」ということだ。経験を深めてたくさんのカードを持ち、無双の天才の秘密を解き明かした時に、学ぶ凡才は最強となる。
ここで話を「身体知」に戻す。
新くんはなぜ無双の天才、若宮クイーンに勝利したのだろうか。それは、相手の身体を操ったからなのであるよ。
若宮クイーンは、互角の相手と競い合うことがなかったがゆえに、かるたの札としか向かい合えない。新くんはそこを衝く。つまり、クイーンの身体をハッキングし、ことばを身体的に認識するという機能を崩壊させる。「ことばの身体」にシンクロすると同時に、「相手の身体」にもシンクロする。
これが「最強の者」の勝ちかただ。相手の「無双の才能」すら自分の勝ちに利用する。
原田先生と新くんが示したように、主人公のちはやちゃんと太一くんには「最強」の道が開かれている。それはつまり「学ぶことができる余白」と「学び合うことができる仲間」があるからだ。
学び続ける、変わり続ける、支えあい続ける。
才能の欠損こそが、人に道をひらき、人生に奥行きを与える。
そしてその物語の扉は、800年前から継承される「身体をもったことば」によって開かれる。は…はやく新刊が読みたいぜ。
【追記】かるたの試合が終わったあとに、ちはやちゃんが脳みその疲労回復のためにチョコレートをムシャムシャ食べるシーンがありますが、脳みその燃料になるのはチョコレートのスクロースではなく、グルコース(ブドウ糖)なので、チョコレートじゃなくて甘酒のほうがいいと思いました。余談ですけど。