「満を持して」感。

僕はWEBで発信することでいっぱい恩恵を受けてきたのだが、SNSやブログで誰でも情報発信できるようになって、損なわれたものがあると思っている。

それは「満を持して」感だ。

僕の大好きな文学者に、吉田健一という文豪がいる。

戦後の首相、吉田茂の息子なのだけれど、親の七光を使わず地味な翻訳者としてキャリアをスタートした。そして40歳になるころに「満を持して」、自分の著作を発表する(そしてそのスケールがデカい)。

翻訳家としての評判はあったものの、周りは彼自身の著作を読んではじめて「これほどまでに懐の深い思想を持っていたのか」と思っただろうよ(←たぶん)。

吉田健一は、ひたすら翻訳をしながら「山を登る準備」をしていたのだと思われる。そして潜伏期間をじゅうぶんに経たあとに自分の言葉を語り始めた。

これが「満を持して」感の実例であるよ。

翻って、現代の様子はいかがであろうか。

SNSの拡散性の高さ、面白いヤツを見つけ出す力は一面では多様な「時のひと」を発掘するが、他方では吉田健一的な潜伏を難しくする。

まあつまり、引き出しが少ないうちに人前に出ることになるわけだ。そうなると「引き出しのなかのモノを増やす」という努力と「引き出しのなかのモノを消耗する」という現象がシーソーゲームになる。そして、後者のほうに振りきれると「オワコン化」することになるわけだ。

でね。去年に僕自身が体験したことでいえばさ。

今って、紙でもWEBでもテレビでも、いっぱいメディアがあるわけじゃない。だから、いっぱいコンテンツの供給者が必要なわけよ。で、いったん「あ、コイツは供給者としてイケそうだな」となるとエンドレスで仕事の依頼が来る。そいつを「ほいほい」と引き受けると、一瞬でシーソーゲームがバッドエンドになる。

あるいは。

ブログの記事がたまたま拡散したら、あんまり聞いたことない媒体から「ウチに転載させてくれませんか」という連絡がどどっと来る。こういうのに「よござんすよ」と答えるとろくに記事の内容を読まない人からよくわからないフィードバックがいっぱい来るだろう。

これはもうノイズでしかない。

何が問題なのだろうか。

生身の個人が知識や体験を蓄積するスピードと、コンテンツとしてメディア上で流通するスピードの乖離があまりにも激しい。

だから自衛をしなければいけない。

「満を持する」ための潜伏と沈思黙考の時間を意識的に確保する必要がある。「自分のなかの吉田健一」がGOと言うまで勝負のリングには登らないという選択が意味を持つのであるよ。

50歳を過ぎて深みのある人生のピークを迎える。これが僕の理想。

だって、人生長いしさ。

 

【追記】会社の経営をしてみて実感したのが「本気で勝負に出るタイミングはほとんどない」ということで、むしろ「勝負したくなる気持ちを我慢する」という忍耐のほうが重要だということだ。それは個人の活動においても全く同じで、周りが「もっと速く!」と煽れば煽るほど、「じっと待つ」ということの価値が浮上してくるのであるよ。

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小倉 ヒラク

発酵デザイナー。1983年、東京都生まれ。 「見えない発酵菌の働きを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、全国の醸造家や研究者たちとプロジェクトを展開。下北沢「発酵デパートメント」オーナー。著書に『発酵文化人類学』『日本発酵紀行』など多数。