明けましておめでとうございます。ヒラクです。
無事新年を迎えることができました。みなさま今年もどうぞよろしくおねがいします。
さて。新年そうそう「愛」について話したいと思います。
昨年後半はなぜかたくさんの妙齢女子の身の上話を聞く機会がありました。わざわざ山梨まで思いつめた顔をしてやってきて、開口一番「わたし…、こじらせてるんですッ!」とエクスプロージョンを起こした女子、タラレバ娘に関するエントリーを読んで切迫感に溢れた人生相談メッセージをよこした女子、中央道を車でぶっ飛ばしながら罪深い黒歴史を吐露した女子など、今まで「純真無垢で可愛い存在」と見ていた妙齢女子のイメージが根本から変わる一年となりました(←取ってつけたように言ってみたけど、最初からそんなイメージなんて持っちゃいねえが)。
彼女たちには全く出会いがないわけではなく、愛する人との「向き合い方がわからない」という問題で深く心を傷ついたあげく、仕事で暴走したり、不実な恋に走ったり、酒に溺れたりするわけです。
なるほど。
愛には2つのレイヤーがあることをご存知か。
「状況を愛する」と「現象を愛する」の2つ。このレイヤーを取り違えることから悲劇が起こるのだよ。
「状況を愛する」というのは、「自分が置かれているシチュエーションに執着する」という事で、「お金持ちでイケメンの彼氏と流行りの場所でデートしている状況」あるいは「セクシーな美女を助手席に乗せて海岸線を外車でぶっ飛ばす状況」を愛しているわけなので、突き詰めるとそういう状況にいる「自分を愛している」ということです。つまり自己愛なわけよ。
対して「現象を愛する」というのは、「湘南の海辺に佇んで寄せては返す波をただ見つめる」という感覚を、人間にあてはめるということ。目の前に存在している他者のありようを、正誤の判断をすることなく、ただ愛でるということです。これを言い換えると「たましいを愛する」という事になります。
結論から言うと、愛におけるこじらせは「たましいを愛してほしい」のに、お互いが「自己愛に走ってしまう」という事に起因する。
「状況を愛する」というのは、誰に教えてもらわなくても自然にできるが(←幼児の愛と一緒だから)、「現象を愛する」というのは、研鑽をつまないといけない。
しかし、残念ながら現代の日本の社会は「現象に対する愛」を「自分はトクしない、非合理的なもの」として退ける(非合理的だから意味があるのに)。つまり、男子も女子もどちらも「自己愛をぶつけあう」というバッドシチュエーションに突入する。これは「お互いの話を全然聞いてない会話」にような不穏なノイズを発生させ、タラレバ娘4巻の奥田くんと倫子さんのような破局を生むのであるよ。
「オレ、たましいを愛されたいんだけど、やり方わかんないから手本見せて」
「ワタシだってわかんないわよ。あんたから手本見せなさいよ」
この「お見合い状態」を脱するためには、残念ながら問題に気づいたものからアクションを起こさなければいけない。一般的に是とされる段取りや文脈を無視し、いきなり相手をぎゅっと抱きしめ「生きててくれてありがとう」と言祝をしなければいけない。
「あー、初詣どこも混んでんなあ。ファミレスでも行かない?」
(ガバッ…!!)
「タカシくんッ…!生きててくれてありがとう…!!(←号泣しながら)」
そう。田舎のおばちゃんみたいなモードにならないかぎり、二人のたましいは浄化されない。
この「文脈の唐突さ」と「意味のわからないテンション」の人類学的意味を認識し、田舎のおばちゃんの愛の偉大さに気づくことが心の闇というトンネルをぬけ出す光となるのですよ、みなさんご存知でしたか(僕はこのエントリーを書くまで知りませんでした)。
それでは暑苦しい愛に溢れた一年となりますように。