「わかる派」と「わからない派」。
今年は本格的に「学び」の年になりそうだ。
個人に戻っての仕事のペースが掴めてきたので、改めて発酵とデザインの勉強をやり直している(←発酵デザイナーだから、どっちも一流でないとね)。
ポイントは「学びながら働いている」のではなく、「働いて」、「学んでいる」ということ。前にも書いた通り、「仕事」と「学び」は同時進行できない。なので、「ここからは学ぶ」、「ここからは働く」と、時間とマインドセットを変えて一日を過ごしている。
というわけで、日々の結構な時間を学ぶことに費やしているわけなのだけど、本当に「学び」は奥深い。
何かを学ぶことは、「わからない」ということに対しての意味を問いなおす、という機会だ。
例えばだな、僕はいま、菌を自分で培養しているのだけれど。
日々この微生物たちを観察していると、人間とかネコとかと「生きている」という定義が違いすぎて目眩がする。なぜこの菌たちが増殖するのか、何を好んで、どういう風に子孫を増やしていくかというメカニズムがよく「わからない」。
それでもって色々専門書を読んで菌たちの生命代謝のプロセスを科学的に理解したりするのだけれど、結局「なぜ彼らのような不思議な生き物が地球に現れたのか」という謎はより深まっていく。
僕が微生物を研究しているのは、菌たちのことが「わからない」から。
でもって、僕が10年以上もデザインに関わり続けているのは、僕たち人間の感性のメカニズムが「わからない」から。
そもそも大学の時に熱心に文化人類学を学んでいたり、ゲストハウスを運営したりしていたのは、自分とは違う文化に生きているヤツのことが「わからない」から。
さて、ここでポイント。
「わからない」から「わかりたい」というロジックは実は正しくない。
「わからない」ことを深追いしていった結果あらわれるのは、「より深遠なわからなさ」であり、究極的に「わかった」という現象は永遠に起きない(もし起きたとしたら、それは不勉強からくる「錯覚」だわな)。
「…で、ヒラクくんは何がいいたいのかね?」
えーとね。つまり、「わからない」ということは、何かが解決されていない「欠落」ではなくて、情熱的に生きていくための「楽しみ」なのだね。
「わからない」の質をどんどん高めつつ深めるというのが「学び」に潜む「快楽」なのであるよ。
実際のところ、年を喰って世慣れしていくと「わかった」と口にすることはそんなに難しいことじゃなくなる。
「お前のことはよくわかった」「社会の仕組みはオレが一番よく知っている」「結局カネと権力だろ」。こういう台詞はつまりポジショントークであって、実際にわかっているかわかっていないかではなく「オレはお前(ら)より上の人間だ」とマウンティングする乱暴なお猿さんの行為に近い。
で、そういう事をする人は、だいたい不機嫌であんまり友達になりたくない感じになる(ヒラクの所感ですけど)。
「わかる派」になることより「わからない派」にとどまる方が人生の熱量が必要になる。
取り急ぎ何に対しても「わかった」という態度を取る人は、政治力学的には正しいかもしれないが、「ワクワクし続けている生きる」という情熱が冷めてしまうのではないかしらね。
「わからないわからない!知りたい知りたい!教えて教えて!」
といい年こいてはしゃいでいる人は、いっけん間抜けかもしれないが、本人の実感としては底抜けにハッピーな状態なのではないかと思う。
「ふん。そうやって『わからない派』をおとしめるヒラク君なりのポジショントークなんだろう。私はわかっているよ。」
え〜、わかってないなぁ。