Centro Historico〜映画を見るよろこびとは

昨日のエントリーに引き続き、映画の話。

取り上げるのは、「ポルトガル、ここに誕生す?ギマランイス歴史地区?」。

アキ・カウリスマキ、ペドロ・コスタ、ビクトル・エリセ、マノエル・ド・オリヴェイラの、「通な映画監督」4人が撮った「ポルトガルのアイデンティティー」を題材にした短編オムニバスです。

さて。今日の本題は「映画を見るよろこびとは何か」です。

考えるに、映画の見方はざっくり分けて3つあるかなと。

1、派手な映像(SFXとか)をハラハラドキドキしながら楽しむ。

2、素敵な登場人物の人間模様、心の動きを追って楽しむ。

3、画面そのものを見て楽しむ。

ハリウッド超大作は1、恋愛映画やミニシアター系は2が多い。そして、「ポルトガルここに誕生す」は1でも2でもない、画面そのものを見て楽しむ「通な映画」なのですよ。

というわけで、簡単に各短編を紹介します(ペドロ・コスタの作品は元ネタを知らないので割愛)。

▶アキ・カウリスマキ「バーテンダー」

アキ・カウリスマキの短編は「いつものアレ」。

ギマランイスの街の片隅にある地味な中年バーテンダーが、社交ダンスクラブで一度か二度踊ったことのある女の人に熱をあげてプロポーズしようとするも、既婚であることを知ってしまって不貞寝する…という、まったくもって盛り上がらないお話しです(「浮き雲」の雰囲気にちょっと似てるかも)。

このカウリスマキ監督、ヘンなのですよ。映画に当然あるべきはずのものが「無い」。

この作品では、まずセリフが無い。ラジオから流れてくるファド(ポルトガルの歌謡曲)の歌詞を除いて、約15分間誰もしゃべらない。そして、表情が無い。登場人物の誰ひとりとして、眉一つ動かさない。さらにストーリーの抑揚も無い。一見どうでもよさそうなシーンを一つ一つ切り取るだけで、ドラマチックさが排除されている。

こんなに無い無いづくしでも、映画は成り立つのか。

カウリスマキの映画なら、成り立つ。というか、セリフや表情を排することで、映画の原点である「コマのつなぎ」によるストーリ―テリングが際立ってくる。

ラストシーン、ハートブレイクして眠る前に、部屋の前にネコのミルクを置くシーン。ここには、バーテンダーの姿もネコの姿も出てこない。出てこないんだけど(というか出てこないからこそ)、主人公の心優しさと孤独が伝わってくるわけです。

というわけで、このカウリスマキ監督のミニマリズムは何に例えたらいいんだ?

今のところ、増田ミリ以外思いつかないぜ。

▶ビクトル・エリセ「割れたガラス」

次に、ビクトリ・エリセの「ドキュメント風」短編。

かつて大勢の労働者が働いていた廃工場の食堂を舞台に、昔そこで働いていた男女が当時のことを振り返る。社会学的に見るならば「搾取された労働者が云々」「グローバリゼーションの余波がEUに云々」みたいなことにフォーカスが当てられそうですが、それは野暮ですね。

この作品で素晴らしいのは、カメラの据え付けられた位置と、ライティングです。

役者ではない、ごく普通のおじちゃんおばちゃんのひとり語り。ふつうは長く見られたもんじゃない。ところが、絶妙の照明、バックの巨大なモノクロ写真、そして全身を写したショットとクローズアップをリズム良く切り替えていくことで、素人が「役者」に化けるんです(そしてたぶん演技指導もしている)。

「今は無くなった工場の昔話」という地味なテーマを「物語」に仕立てるために、監督は映画的な「テク」を用いていくんですね。ラストシーンでは、貧乏な労働者を親に持ち、苦学しながら教養をつけてミュージシャンになった息子が、親父のことを思い出しながらアコーディオンを弾きます。その曲にあわせて、食堂の壁に貼られた巨大写真に写っている無数の人々の顔がクローズアップで映しだされていきます。その瞬間、「ただの写真の被写体」までもが「物語の登場人物」になっていきます。

ラスト3分間、観客は「知らない場所、もうない工場」について、まるで神話のように想いを巡らすことになります。

うーん、これこそ映画のマジック。

▶マノエル・ド・オリヴェイラ「征服者、征服さる」

最後に、マノエル・ド・オリヴェイラの超短編(5分ぐらい)ですが。

うーん、もう安易なコメントすらできないな。ええと、どこから説明しようか。

この映画って、要は「観光PR」を目的につくられた、要は「行政企画モノ」なんですよね。「ギマランイスを良い感じに宣伝してくんろ」というオーダーに対し、カウリスマキは「そこの片隅に生きるバーテンダーの孤独を撮ろう」と言い、ビクトル・エリセは「かつてギマランイスの産業の中心だった廃墟を撮ろう」と言い、ペドロ・コスタに至っては「いかにギマランイスを撮らないか」と言い出す始末。

…みんな言うこと聞かなさすぎ(汗)。

そんな中、オリヴェイラ爺(104歳)のみが、「あ、観光用ね。よござんすよ」と言って撮ったのが、まさかの「自分の孫がアメリカからの観光客を連れて、ギマランイスでガイドする」という作品。

爺さん、逆に捻らなさすぎだろ!!

…てなわけで、クライアントの要望を120%忠実に反映した「観光ガイドビデオ」なのですが、これがまた、「絵がうっとりするほどキレイ」なのですよ。

バスの窓ガラス越しい見える金髪のお嬢さん達の美しさ、広場に乗り付けてくるバスのモーションの小気味よさ、征服者の銅像を見上げるショットに広がる青空…。

さすがブニュエルやフェリー二と同世代(フェリー二より一回り年齢上!)。

オリヴェイラが撮ると、観光ビデオすら「映画」になってしまう。

その秘訣は何かというと「世界をどう切り取り(コマ割り・カメラアングル)」、「どのように映し出すか(照明・役者・舞台装置)」のセレクト及びDJの作法にあります。

この作法を極めた監督のみが、「ドラマのいらない映画」を作ることができるわけなんですね。

うーん、良い映画だったなあ。

この作品、イメージフォーラムでしか上映していないので、目に行けない人はトレイラーをご覧ください。これだけでも、「映画を見るよろこび」伝わってきますよ。

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小倉 ヒラク

発酵デザイナー。1983年、東京都生まれ。 「見えない発酵菌の働きを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、全国の醸造家や研究者たちとプロジェクトを展開。下北沢「発酵デパートメント」オーナー。著書に『発酵文化人類学』『日本発酵紀行』など多数。