蝶が美しいのは、飛んでいる時だ。角田光代さんのエッセイに思うこと
こないだスタンダードブックストアの中川先輩にオススメされた、角田光代さんのエッセイ『これからはあるくのだ』を読んだらすごく面白かったので雑感をメモ(←書評ではない)。
すべての所作を美しいと思わせる「感性」
このエッセイは角田光代さんが30代前半の頃のもの。
思い出話、旅の話、友だちに飲みに行った時のことなど、作家の日常のことが平易な表現で語られているわけなのだが。
この文章を読んで驚くのが「ビックリするぐらい何も目新しい意見や知識が書かれていない」と同時に「美しい感性が爆発しまくっている」ということだ。
なんて言えばいいのかしら。
たまーに、もう息して歩いているだけで美して高貴すぎる「天性の美人」ってのがいるでしょ。そういう感じなんだよ(←ちなみに角田光代さんの容姿を僕は知らない)。
凡百の民も当然息したり歩いたりするわけだが、それは別に「作品」ではない。
同様に、凡百の民が何かしらの用事があって書いた文章も別に「作品」ではない。
しかしある種の才能が身の回りのことを書きつけることが「作品」になることがある。
これが天から授かった「感性」というのもだ。
蝶がいちばん美しいのは、飛んでいる時だ
このエッセイを読んでみて気づいたこと。最近僕はサイエンスの世界にどっぷりなので、本を読むということは、専門書を読んで「新たな知見や情報を得る」という目的が第一義になる。
で。
新たな知見を得てその後どうするかというと、自分の仕事に必要な領域のなかで「構造化し、定式化する」というオペレーションに移る。
サイエンス同様に、デザインも必要な情報を構造化して課題解決に活かす、というオペレーションだ。つまり僕は「構造化しまくり野郎」であると言える。
構造化しまくり野郎と化した僕が、このエッセイのような感性に触れると「めっちゃ潤いある〜!」と激しくハッとすることになる。
「構造化する」「定式化する」というオペレーションはつまり「庭に飛んでいる蝶を標本化する」ということで、「感性によってイメージを表現する」というのは「蝶が飛ぶ行為そのもの」だ。
蝶がいちばん美しいのは、ピンで張り付けられている時ではなく飛んでいるときだ。
標本づくりに夢中になっているオタクが、庭で華麗に飛ぶ蝶に見惚れる瞬間。それは「感性」という彼には手が届かないものに恋い焦がれている瞬間であり、タレントが偶像化する理由でもある。
「感性」は後天的に獲得する能力とは違う次元にある貴重なもので、感性ある人はそれだけでちやほやされるべきなのであるよ。
ちやほや。