本を出したらブログ書けない問題が起こったことについて。
今年はブログの更新頻度ががっくり落ちた。
物理的にめちゃ忙しいからぜんぜん書けない!と思っていたのだが、そうでもないようだ。
僕は今、どうやら文章を書くことに恐怖と苦痛を感じているらしい。
自分のためから、誰かのためへ
過去のエントリーやSNSで何度も書いていることだが、僕が何か文章を書くのは基本的に「自分のため」だ。10年前にブログを始めたきっかけは、デザインをする時に考えたことの備忘録としてだった。デザインのベースとなる思考の素振りであり、容量小さすぎの自分のメモリーのワークスペースを空けるための「記憶のバックアップ作業」でもあった。
そのうち日々考えたことを何でもかんでも書き飛ばすようになり、デザインや仕事のこと以外にも発酵や微生物のこと、少女マンガのことやこじらせ人間の運命などを手当たり次第に書き散らかすようになった。これは5年くらい前のことで、最初は誰も読んでなかったブログに毎月何万人も読んでくれる人があらわれた。ブログがきっかけで雑誌やWEBマガジンにも寄稿するようになった。けど基本スタンスは変わらず、
「自分を喜ばすために書く」
で、ブログそのまんまの謎文章を「だって僕、物書きじゃないし」と書き飛ばしていたんだよ。
ところが転機が二年前に訪れる。はじめての一般向け著書『発酵文化人類学』の出版(それまでにも本出してたけどビジュアル主体の絵本だった)によって、重大なことに気づいた。
本は、誰かのために書く。
本は出版社が社運をかけて投資をし、編集者や校正者や印刷会社が魂を削って体裁をつくり、数千年続いてきた本の文化の系譜に連なるべく多くの人が関わった商品および作品として世に出る。そして素晴らしい作品を心待ちにしている賢明な読者諸氏が幾千万と待っているのだよ。
(いちおう上記の認識であってるよね?>出版業界のひと)
それまでひたすら自分を面白おかしく楽しませるために文章を書いてきた僕は、ここではじめて「あれ、本ってテキトーに書けないな?」と気づいたのであるよ(←あたりまえだよ)。
そして二冊目の著書『日本発酵紀行』。紀行文にブログの文体がそぐわないため、いちど「自分らしい(と定義した)文章の書きかた」をスクラップ&ビルドし、時間の風化に耐える頑丈な文章を書く必要に迫られた。なぜならこの本は、取り扱っているテーマ的に何十年も先の人たちが読む本になるはずだからだ。
自分のためだけにテキトーな文章を書き飛ばしていた人間が、何十年先の見知らぬ誰かのことを考えて文章を書く。考えてみればスゴい進歩…!
でね。
二冊目の本の執筆がほんとに苦しかったんだよ。一文を書くたびに身を削るような痛みで心がズキズキして、精神状態も躁鬱のジェットコースターのようになって突然ボロ泣きしたり自分はクズだ!という強迫観念にかられてのたうちまわった。
前の本を書いた時は、これから始まることのワクワク感に突き動かされていましたが、今回は今まで出会ったものにさよならするような謎の寂寥感を感じています。旅が終わって本をほぼ書き終わって、自分の人生の何割かが死んだ…!という感じ。初めて体験する喪失感。何だこれ?
— 小倉ヒラク | Hiraku Ogura (@o_hiraku) March 30, 2019
人生ではじめて、
「文章書くって苦しい」
「文章書くとかマジ意味わからん」
「てか文章書く苦行とか進んでやるヤツとかあり得なくね?」
と心の底から文章を書く、本を書くということの重さと苦しさを突きつけられたのでした。(この頃の僕に会った人はみんな口を揃えて「死人みたいな顔してるけど大丈夫?」と心配してました。たぶん、半分くらい死んでたよ)
自分へのハードルが上がりまくる苦しみ
そして。無事二冊目の本を脱稿した後に、さらなる苦しみが待っていた…!
いちど苦しんで考え抜いて推敲しまくった「強い文章」を書くと、以前のブログ的な文章の強度では満足できなくなるのだよ、僕が。
もいっかい繰り返す。僕、満足、できない。
それまで鼻歌交じりで書き飛ばした学芸会みたいな文章を、
「うわーめちゃ楽しい自分サイコー!」
とパチパチ拍手していたのが、いっかいちゃんとした劇団でしごかれてみると、最低限納得できるハードルが爆上がりしていることに気づいてしまったんだよ。
これは困った。
とっても困った。
これまで自分のためのお楽しみだった「書くこと」が、苦しみにのたうちまわってようやく一文を書き上げるような「苦行」に変質してしまった。
「その程度の思考の解像度で許されると思っているのかな?」
と僕のなかのレヴィ=ストロース(略して僕ロース)が囁いてくる。
「それで本当に恥ずかしくない文章なのかね?」
と僕のなかの折口信夫(略して僕のぶ)が睨んでくる。
僕ロースや僕のぶを納得させるには、それなりの練度の文章を書かなければいけない。
そしてその練度に達するには、鼻歌交じりでは難しい。暇つぶしで読むブログ的なものではなく積極的に時間をつくって読む本的な文章は、同じ「ことば」でできているくせに、全く別種のものだった。
誰かのために書くことば。
その贈り相手とは読者であり、自分の心の中にいる偉大な先人たちであり、未来の時間を生きる見知らぬ誰かだ。
「誰かにことばを贈る」ということを知ってしまったので、僕はもう前には戻れない。本にしても寄稿文にしてもブログにしても、贈るにふさわしい強度の文章を目指して、日々のたうちまわることになるだろう。ことばが贈られる誰かのために、そして自分をガッカリさせないために。
ここ2年、僕のことばは誰かに届いただろうか。
そうであればとっても嬉しい。
【追記】このような状況なのでその日の気分で短文を書き留められるtwitterが僕の「書き飛ばす欲」を満たす場になったのだが、そのうちそこにすら強度を求め始めたら「にゃん」とか「わん」とかしかつぶやかなくなると思われます。