働くということの意味は、自分のなかにはない。
今日は朝から来客。
「キャリアバイト」なる、キャリア志向のインターンシップの斡旋サイトの営業の武井くん(25歳)が++の事務所にやってくる。
どこからか++のサイトにたどり着き、「御社にもインターンの学生を是非」とプレゼンに来てくれたのでした。
働くモチベーションと、雇う理由のマッチング
前職のあきゅらいず美養品で、人事採用を長らくやっていた経験から、一緒に仕事をさせてもらっている会社や組織の経営者と「人事」のことをお話しすることを機会が多いのですが、昨今よく見る現象としては「若いスタッフが、組織のなかで放置プレイ or 飼い殺しになっている」ケースがけっこうあります。
中小企業であればルーティンの仕事に忙殺されて人材教育に手間がさけなかったり、大企業であれば階層化した組織のなかで、若い人が持っているメディアリテラシーとか思考のフレームがうまく経営に生かせなくてミスマッチが起きていることがあります。
…で、この武井くんが営業しにきたこのサービスは、そういう「若くて元気な人材を生かしたいけど、できない」という雇用する側のニーズと、「バイトみたいに細切れの業務じゃなくて、自分の裁量を任せられる仕事をしたい」という、キャリア志向の学生のニーズをマッチングさせようというサービスなわけです。で、ヒラクは「なるほどね」と思ったんですね。
たぶんこのサービスは、「SEO/リスティング代理業」とか「スマホアプリ制作業」とか「金融/投資コンサルティング」なんていう職種にとっては非常に「よろしい」サービスだなと思うんですね。
なぜかというと、上記の職種は「若い人ほどリテラシーが高い」業種なので(金融は違うだろ、という意見もありそうですが、金融商品は実はスマホアプリと同じぐらい移り変わりが激しかったりする)、伸びしろのあるベンチャー企業はとにかく若い人材が欲しい。
そして、とにかく人手が足りないからインターンでもクライアントと直接コミュニケーションを取るような仕事のチャンスがどんどん舞い込んでくる。そして、ぶっつけ本番でも意外に上手く行っちゃったりするんですね。
(例えば、SEOの知識って、リテラシーのある若い人が勉強すればある程度すぐに習得できるけど、世代が上がるとぜんぜんわからない場合が多い。そして、リテラシーゼロとある程度リテラシーがあるのだと、広告効果が全然違う)
だから、雇用側と「社会に出るスキルを学生のうちから磨きたい。願わくば自分の手で手柄を立てたい」という学生の願望がうまくマッチングするシステムになっているわけです。
現状の「若い人の育て方/生かし方がよくわからない」という多くの企業の困惑があるなかで、こういうニーズはもっと増えていくと思います(僕たち++も、その恩恵に預かれたらいいと思うのだけど)。
…というわけで、僕が基本的にこういう「若い人たちのリテラシーが欲しい」という雇用側と、「仕事で自己実現をしたい」という学生側のマッチングをすることについて「よろしいのではないか」と思う。思うんですが、一つだけ思うことを言わせてください。
仕事は、自己実現の場ではないのだ。
例えば、リスティング広告の仕事で、自分の設定したキーワードがきっかけとなってクライアントの売り上げがものすごく伸びたとする。そのときにそのインターンの学生は「オレ(ワタシ)の手柄だ」と思うだろうし、事実そうだとも言えます。
だけど、それは仕事の「本来」とは違う。仕事って、「自分の自己実現」とか「自分の手柄」を証明するためにあるのではなく、自分以外の何かの問題解決をするためのアウトプットなのだと、ヒラクは思うのです。
インターネットの業界は、自分のやったサムシングに対してのレスポンスがめちゃくちゃ速い。だけど、例えば++の取り組んでいる、社会の基盤を支えている一次・二次産業や教育の領域は何にせよレスポンスが遅れて返ってくる。(農業は1年スパンで動いているし、林業は10年スパンで動いている)
だから、何が成功要因となったか、出元を細かく突き止めることが不可能だし(時間が経つと、それに比例して成功要因の考えられる可能性が増える)、生態系や地域経済の問題になると「売り上げの多寡」だけが成功の要因でない場合が多い。
そうなると、何が「自分の成し遂げたこと」なのか判然としない。しないのだけど、何か「良くなった気配」がする。
それに際して、どこまで自分の関わったことが功を奏したかは、GOD ONLY KNOWSなのですよ。よって、仕事における自分のモチベーションは、限りなく自分から遠ざかっていく。
ちょっと陳腐な言い方ですが、「自分以外の全てに感謝する」みたいなことに向かっていくわけです。
「仕事ができるようになる」というのは「自分の能力を遺憾なく発揮する」ということとはちょっと違う、とヒラクは思う。そうではなくむしろ「自分以外のヤツの能力が遺憾なく発揮される」ことに対しての知恵を巡らすことにあると思う。
キャリアバイトに集う学生さんたちが「自分にもっと任せてほしい」という気持ちを、僕は半分は支持する(「あんたじゃなくていいよ」と言われてやる仕事はツラいよね)。
だけどあと半分は支持しない。
「私のやるべき仕事」は、基本あなたの中にはなく、「来た球打つ」のなかで事後的に発見されていくものだから。
かつて企業のなかで新卒採用の担当をしていた時、本当にたくさんの学生と話をしました。そのなかで、最もよく聞いたのが「私を、『新卒』ではなくて『私という個人』として見てほしい」という意見でした。僕はそのことばを「もっともだ」と思ったのですが、同時にその学生たちに問い返したいことがあったのです。
「じゃあ、あなたは今この瞬間、僕をただの『企業の採用係』ではなく、『僕という個人』として見てくれているのですか」と。