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「先生」禁止!

発酵の講座やワークショップをやり続けているうちに、いつしか受講してくれた人から

「ヒラク先生」

と呼ばれることが多くなった。僕は自分が「先生」と呼ばれるのが好きじゃない。事実としてはいちおう自分のメソッドをもって人に色々教えているわけなのだけど、なんとなく「自分が人に教える立場」であることに違和感を感じまくっている。

えーとね。
「人に何かを教える」こと自体は否定してない(だったら講座とかやらないし)。厳密にいうと「いつでも人に何かを教える立場」であることがイヤなんだね。
「先生」というと「いつも人に何かを教える立場」であることに自分を固定してしまう感じがあって、僕はどうしても違和感を感じてしまう。

だってさ、いい歳したオトナってある程度何かの業界でキャリア積んできたわけだから何かしら人に教えられることあるじゃん。そして同時に何かしら習い事とか別のキャリア身につけようとして「教えられる立場」にもなるわけで。だから「教える/教えられる」っていつでも立場が入れ替わる可変的なものだと思ってるんだよね。

・エレガントに、シンプルに。シューマッハカレッジの、学び合うコミュニティのつくりか

講座の受講者からすると僕が「先生」だけど、僕からすると農大の教授たちが「先生」なわけだ。デザインでも生物学でも文化人類学でもDIYでも、色んなジャンルに僕の先生がいて、僕の意識はいつでも「教えてもらう側」なんだよね。

僕主催の講座だって、実は参加してくれた色んなプロ(料理研究家とかパン屋さんとか)にたくさんのヒントをもらいながら改良を重ねていった。だから僕が一方的に教えるというより「学び合う」ことによってメソッドができあがっていった。

僕にとっては「一方的に教える」では面白いものが生まれないんだな。

でね。
最近一般向けの本(しかもわりと専門的なヤツ)を出して、それなりに読まれるようになってくると今度は出版業界とか本屋さんから「先生」と呼ばれることも増えてきた。これは講座における「先生」よりさらに違和感があって、呼ばれるたびに

「も、もうやめておくれ〜!!!!」

と悶絶しながら地面をのたうち回りそうになる。このシチュエーションにおける「先生」を分解してみると、

・凡人を絶する崇高な知恵を持つ啓蒙者→そんなワケないじゃん
・その知恵にふさわしい高い地位にいる人→ただの零細自営業者ですけど
・先生と呼んでおだてておけばなんかいいことあるかも→もはや嫌がらせですよね?

ということになる。3つそれぞれにタチが悪い。
今の時代「啓蒙する側とされる側」なんて区分は意味がなさすぎる。前にこのエントリーでまとめた通り新著『発酵文化人類学』はコミュニティとのコール&レスポンスでできている。

・【発酵文化人類学】一週間で重版出来!の舞台裏。マーケットではなくコミュニティに届ける。

そして同時にたくさんの先人や友だちの考えかたや実践に影響を受けて一冊の本ができるわけだ。
つまり「啓蒙」ではなく「相互作用」によって新しい知や表現が生まれていく。それが今の時代らしい方法論なのだと僕は思っているわけで。

で、2つめとか3つめを真に受けるとただの「木に登った豚」なわけじゃん。
こういう「センセイ(←もはや漢字の先生とは別物)」になることで得られる利益というものが世間には少なからずあるのかもしれないが、無自覚にこの「センセイポジション」に安住していると、やがてそのセンセイは「妖怪・話を聞いてもらえるおじさん」に变化してしまうのであるよ。
(話を聞いてもらえるおじさんについては今度またブログにまとめる予定)

もしこの時代に価値のあるものをつくろうと思うんだったら、高い場所に登って鳥瞰的な立場を取ることはやめたほうがいい。(オレは見通しているんだ!現代の価値観を総括できるんだ!的な)
そうではなくて、様々なものが渦巻く水面のなかにダイブしていく。上も下もないカオスのような場所のなかで気の合うヘンな人たちと相互に影響しあいながら何かをつくりあげていくほうが断然面白いと思う。

ということで、今後僕を呼ぶときは「先生」禁止!!!

【追記1】「先生」という職能はめっちゃリスペクトしています。単に僕の性格的に合わないよ!というおはなしです。

【追記2】先生禁止!というのは「人に何かを教える責任を放棄する」ということではなくて。責任はできるかぎり負うけれど、肩書は負わないよ!ということです。

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