「非対称のコミュニケーション」を強いる言葉。

素人の話の続き。

「自分が素人である」という認識の大事さもさることながら、今日は「素人に対してかける言葉」を吟味してみようかと。

何かを始めようとしている素人にとって、一番恐ろしい言葉は「お前よりすごいヤツはいくらでもいるから」です。

よっぽど革新的 or ニッチなことに目をつけない限りは、同じ領域の先達がいるわけです。

それは始めようとしている本人も薄々わかっているから、「お前よりすごいヤツはいくらでもいるから」というセリフはグサリと刺さるわけです。

でね。

このセリフって、口にする本人の「気持ち」によって機能がぜんぜん変わってくるんですね。

もっと言えば、セリフそのものではなくて「言霊」の次元が問題になってくる。

その言霊をあえて言語化するとすれば、こんな感じです。

Q 「これから、カフェを始めようと思うんです。」

A1「カフェなんて、いくらでもあるじゃないか(←だからやめとけ)。」

A2「カフェなんて、いくらでもあるじゃないか(←でも、お前にしかできないことがある)。」

どっちも同じ答えなんだけど、言霊が違うんですよね。

人の成長を妨げようとする言霊なのか、人を励まそうとする言霊なのか。これを見分けられるようなセンスが大事です。

「甘っちょろい意識を叩きなおしてやろうと思って」と、一見「その人のためを思ってのセリフ」かと見せかけつつ、実は「その人を永遠に素人に留めおこうとするワナ」だった。

こういうこと、本当によくあります。自分の利害に関係なくても「お前はカフェなんてやる資格ねえよ」と無意識に口にしてしまう人がたくさんいる。

これ、僕にはよく理解できないんですよ。

こういうことを口にする人は、いったい何がしたいのだろうか?

「非対称のコミュニケーション」を強いる言葉。

相手を引き上げるのではなく、永遠に谷底に釘付けにするような言葉。

考えてみれば、こういうコミュニケーションって「短期的な戦略」としては有効なのかも。「自分の立場を崖の上に留めおく」ことにおいて著しく効果的。

…なのですが、それは長期的な視点でいうと、損のほうが多い。

だって、その言葉をかけた人が将来自分のポストについた時、その人も恐らく「お前に◯◯なんてやる資格ねえよ」と後輩に言いそうじゃないですか(あるいは自分の立場をおびやかす「後輩」が出てこないように牽制する)。そしたら、谷底に釘付けにされた人が、もっと深い谷底へ人を留めやろうとするコミュニケーションになるわけで、その業界ないしコミュニティにおいてのアベレージは、どんどん下がっていく。

そういう連鎖がもたらす現象が、「過剰な権威付け」なわけですよ。

先輩の利害関係に抵触しない後輩においてのみ「お墨付き」が与えられる。

その「お墨付き」がない限り発言権が持てないような状況をつくる。

その結果、「先達/上司/お上の機嫌を取ることが自分のゴール」というシチュエーションが不可避的に後輩たちに課されていくことになる。

そのルールのなかで、遅れてやってきた後発のプレイヤーができることは、先発組の「フォロワー」になることしかできず、いつの日か先発組が「引退」することを唯一の救いとして願いながら「そうですよね。本当に先輩の言うとおりです」とリピートしまくることになるわけです(おお、企業文化の制度疲労を見ているようだ)。

そして組織やコミュニティのパフォーマンスは底割れし、変化に対するリアクション力が著しく低下していく。

だからお前はダメだ」の再生産ビジネスというエントリーでも同じようなことを書いたのですが、「このハードルを超えてみろ」と一方ではいいつつ「そのようなことは許されない」というメタなメッセージも同時に発して、受け取った人が「その場に凍りついて動けないようにする」邪悪なメッセージが「その人のことを思って」という隠れ蓑をかぶりつつ、あちこちに充満しているわけです(困ったね)。

ヒラクはこれを「成長期の社会に特徴的なモード」だと見ます。

毎年毎年人口が増え、需要が増え、拡張していく。そのときに若い衆のモチベーションを駆動させる言葉が「お前の代わりなんていくらでもいる」なんですね(物理的にそうだし)。

もし「自分がなにもしなくても」資源もお金も湧いて出るような社会だったとしたら、人は「この機を逃さぬよう」走り回ることになる。

だけどさ、モードが変わってしまったですよ。

「成熟期の社会」においては、この駆り立て方は通用しない。

前のスキームで「生産人口」とされていたボリュームが減少する社会においては、その社会のメンバーが能力や肩書の境なく「自分が何かしらアクション」しないと資源もお金も生まれてこなくなる。

つまり「お前の代わりは誰もいない」みたいな状態になりつつある(だから自治体は「雇用創出」の施策に四苦八苦してるわけだ)。

さて、そういうモードの時には、どんな言霊が必要なのか。

それは徹頭徹尾「励ますことば」、言い換えれば「景気の良いことば」だと思うんです。

おんなじことを言うにしても、

「お前よりすごいヤツはいくらでもいるから(←だからお前にもできるよ)」

「他にそういうことやってる人いるよ(←だからお前にもできるよ)」

「お前に◯◯をやる資格はねえ」「お墨付きをもらってから口を利け」

というモードが何十年か続いて、世の中は「素人」ばっかりになった

ボトムアップとは逆で、底抜けが進みまくった。それは、その世代のスキルのある/なしではなくて、実は非対称のコミュニケーションによる縛りだったと思うんですよ。

僕はそういう縛りを解除したい。

人はいつ、どんな時でも何かに挑戦する権利がある。「素人であること」が「挑戦権を持つこと」とイコールである、そういう土俵をつくりたい。そのためには、まず自分のなかの「ネガティブスパイラルを引き起こすモード」を点検して、見直していくことが必要だと思うんだな。

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小倉 ヒラク

発酵デザイナー。1983年、東京都生まれ。 「見えない発酵菌の働きを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、全国の醸造家や研究者たちとプロジェクトを展開。下北沢「発酵デパートメント」オーナー。著書に『発酵文化人類学』『日本発酵紀行』など多数。