こころの中の部屋

今住んでいる部屋は、どこか抽象的で、そのくせノスタルジーを呼び起こす。

夜、まどろみから醒めてベッドから窓の外を覗くと、大きな椎の木の向こうに街灯の光がぼんやり浮かんでいるのが見える。

ダイニングテーブルには、読みかけの本とペンとグラスが散らばっていて、ステレオからはかろうじて聞き取れるほどの小さなな音でラジオが流れている。

あとは静かで、たまに車の通る音と誰か(若いカップルだろうか)ひそやかに笑いながら話す声が聞こえ、やがて遠ざかっていく。

京都の話でも少し書いたけれど、僕は高校の終わりくらいからしばらく、頻繁に海外へ一人旅をしていた時期があった。バイト代でいける範囲だったから、東南アジアをブラブラするいわゆるバックパッカー旅行というヤツ。

どうしてそういうことを始めたのだろう?

学校に馴染めなかった、外の世界を見たかった、60年代の文学やカルチャーにかぶれていた…

理由は色々ある。でも今思うのは、根本には「空っぽになりたい」、「放っておかれたい」、そんな思いがあったのだと思う。

言葉も通じない、どこか知らない国の雑踏のなかに紛れ込んで自分の存在を消してしまいたい、そんな不可解な渇望があった。

東南アジアから始めて、お金が貯まると少しずつ西へ西へと足を延ばし、スパイスと獣の匂いでいっぱいの市場、麝香がたかれた回教寺院、金色の夕日で何も見えなくなってしまうような大きな大きな桟橋を渡り、崖にはばりついた白い街並を眺め、ローマ時代の石柱で子供たちがかくれんぼをしているような港町を通り、赤土の平野に築かれた迷路をうろうろして、砂漠の星空を見上げて…それから??

それから。

しばらく時間が経つと、一つ一つの景色は全体的なまとまりを失って、感覚的な印象しか残らなくなっていった。カフェでのおしゃべりの声とか、オレンジの街路樹の香りとか、仲良くなった女の子の笑顔とか、そんなものだけがこころの奥に澱のようにしずみ、そのうちカクテルみたいに混ざりあって、日々の現実からほんのちょっと浮かんでいる不思議なイメージ…としか呼べない曖昧な、だけれども絶えず自分の何かをそこに戻らせていくような感覚が形成されていった。例えて言えば、何かとりとめのない音楽や抽象画に触れるような、そんな説明しずらい、けれども鮮やかな感覚。

それは、外国の空港に降り立った時の昂揚感とは少し違っていて、もっと静かで冷静な、けれども自分の血肉の一部であるかのような親しみやすさで自分のこころのどこかに沈んでいる。

どうだろうか?この文章を読んでいる人にもそんな感覚はあるのかな?

外国じゃなくても、特別な場所じゃなくてもいい、何か自分の中に定着した感覚が長い間かけて混ざり合い、醸成されていった、あなただけの音楽、抽象画。

きっとあるはずだと思う。

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前置きが長くなってしまったけど、僕が今話したいのはその感覚のことではない。

それを思い出す「場所」のことだ。

自分だけの音楽、抽象画を味わう場所とは、一体どこなのか??

僕の場合、それは「こころの中の部屋」と呼ぶべき、これまた抽象的な場所なのだ。

その部屋は、現実には存在しない。

こころの中の、地図にはマッピングできない、名もない辺境にひっそりと存在している。

バンコクの、ハノイの、上海の、イスタンブールの、マラケッシュの、コルドバの、(僕は行った事ないけど)カルカッタやゴアやウブドや香港やアレッポやアムステルダムやヤングーンの、20歳のころの僕みたいなどこかうら寂しい気持ちで旅している馬の骨が眠ったゲストハウスやペンションやドミトリーの、簡素でもの悲しい部屋をピントのずれたカメラで撮ってシャッフルして混ぜ合わせてモンタージュ画像にしたような、全く具体性を欠いた、永遠に架空のままの部屋。

ある朝はやく、あるいは昼下がりの駅のホームで、あるいは今夜みたく暑くて寝苦しい深夜に目を覚ました時、自分の手のひらにルームキーが握られていることに気づく。

そしたら僕は架空の部屋の扉を空け、レコードの針を落とす。やがて壁に映画が流れ始める。そこには今まで自分が覚えている景色が延々と流れ続ける。

小さい頃に泳いだ海のきらめきとか、

車にはねられた時の痛みとか、

初体験の時のとまどいとか、

初めて母国語じゃない言葉で話をした瞬間のこととか、

誰かを取り返しのつかないほど傷つけたり、傷つけられたり、

好きになったり、好きになられたりした時のこととか、

そんな瞬間が淡々と流れ続け、いつしかスタン・プラッケージの実験映画みたいに全ては動きと色彩に還元され、目を閉じて、まぶたの裏に満点の星空のような記憶の光を点滅させる。

やがて曲が終わって、目をあける。

そこには、いつもと変わらない自分の部屋や、駅のホームや、コンビニがある。

長い旅の後のような気だるさを感じる、けれど、携帯に仕事の電話がかかり、コンビニの店員が「ストローはお付けしますか?」と聞いたりすると、それはものの五秒で消え去ってしまう。

それでいい、と思う。

僕は東京で色んな人とのつながりの中で暮らして、朝から晩まで一人でいる時間は限りなく少なくて、それを結構楽しんでいる。自分はある瞬間にそういう生き方を選んだ、そしてそういう風に生きていくのだろう。

でも僕はある瞬間必ず、あの部屋に帰っていく。

孤独の場所へと、戻る。誰にもシェアできない、秘密の場所に。

そこは、もの悲しいけれど、安らぎに満ちたこころの中の部屋だ。

長い旅の後に、僕はその部屋を見つける事ができた。

だから、もう昔みたいな気持ちの旅はもう二度としないだろう。

一人旅で確かな「自分」なんて見つかりはしない。見つかるとしたら「孤独」という自分の影に他ならない。

そしてその影とどうつき合うかは、旅から帰ってきた後の人生にかかっている、そんな風に今は思う。

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小倉 ヒラク

発酵デザイナー。1983年、東京都生まれ。 「見えない発酵菌の働きを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、全国の醸造家や研究者たちとプロジェクトを展開。下北沢「発酵デパートメント」オーナー。著書に『発酵文化人類学』『日本発酵紀行』など多数。