発酵は「科学と哲学の交差点」。
『発酵文化人類学』の重要なキーワードで。イベントでも話していることを改めてブログでまとめておきます。
例えばブドウ果汁がなぜワインになるのか。その基本原理は化学式にあらわすことができます。ブドウ果汁に含まれる糖分を、酵母が分解してアルコールに変えることで酒ができる。この原理は世界のどの国のワインでも普遍です。パンでもビールでもその基本原理はいっしょ。
そういう意味で、発酵は自然界で起こる普遍的現象であり、サイエンス(化学)の対象ということができます。
なんだけどさ。そのワインを「美味しいかどうか」という視点で見てみるとちょっと考えかたのモードが変わってくる。ブルゴーニュの高級ワインは、普段チューハイ飲んでる人にとっては「酸っぱい、渋い!」となって美味しくないかもしれない。そこには飲む人の経験や美意識が大きく関わってくる。
酒の発酵という現象自体は再現性があるものだけど、個々人の感性には再現性がない。
この矛盾があるこそ、発酵はとても面白い。
「世界一美味しい酒」は存在せず、「自分にとってサイコーの酒」だけが存在する。日本でいちばん流通している大手メーカーの味噌でつくった味噌汁よりも、お母さんの手前みそ汁が嬉しい。こういう「自分が感じる美味しさ・幸せ」を考えはじめると科学の領域だけでは手に負えません。そこには歴史の変遷や人間の感性を踏まえた社会的な考察が必要になる。
物理学や化学などのは常に「普遍的な現象」を取り扱うもの。「オレは重力から自由だ!」と主張しても空を飛ぶことはできない。たいして哲学や社会学は「個別特異的な現象」を取り扱う。ある特定の瞬間の、他ならぬ個人やコミュニティにとっての意味を掘り下げていく。
発酵はその現象自体は普遍的なのだけど、それを美味いとするかどうかは受け取る側の個別の事情による。ボルドーの高級ヴィンテージワインを最高とする価値観もあれば、うちのおっかあのどぶろくが最高!とする価値観もある。
だから発酵は「科学と哲学の交差点」。普遍的なくせに答えがない。発酵の道を極めるためには、一方ではケミストリーや分子生物学、遺伝学を学び、他方では社会学や文化人類学、哲学や芸術を学ばなければいけない。
様々な視点を統合しないと日々当たり前に食べている味噌汁や酒のことを理解することができないんですね。科学の領域だけ取って見ても、発酵の謎は果てしない。最新の微生物学の知見を総動員してもお味噌の複雑な風味や健康機能をすべて解き明かすところまでいっていない。キムチにしたって発酵に関わる微生物の数が多すぎてその発酵プロセスの詳細はいまだ解き明かされていません。
そこにさらに社会的な謎が加わってきます。発酵は民族や宗教のルーツに深く関与しています。東アジアの発酵を司る「醸」という漢字を紐解いていくと「酉(とり)」という文字に行き着く。これは土中に埋める「酒壺」を意味し、同時に土に死者を葬る「棺」であり、さらに彼岸から故郷に戻ってくる死者の魂の象徴である「鳥」を意味していた。このように古代世界において、発酵させることは「生命の蘇り」を意味しています。
なぜ異なる民族間に共通してそのような不思議なコスモロジーが発生したのかは謎に包まれています(ていうか僕の知っている限りちゃんと研究している人がいない)。
今年に僕が書いた『発酵文化人類学』は、微生物と人間の謎を巡る果てしない旅のはじまりなんじゃないか、と思っています。科学と哲学が交わるその場所に、生命の起源に関わるひみつがあるんじゃないか、そんなことを考えるといつでもワクワクしてくるのだぜ。
【追記】ちなみに「科学と哲学の交差点」のもととなるアイデアは農大の穂坂教授から授かりました。製麹や利き酒のメソッドだけでなく、思想も授けてくれた偉大な先生です。