彼女たちは、号泣しながら谷を登ってくる。『東京タラレバ娘』テレビドラマの安すぎるエールについて

『東京タラレバ娘』のテレビドラマ版がイマイチだ。
ここ数週間、なぜ僕はドラマ版をイマイチだと思うのかを自問自答していた。

キャスト?
確かに主役三人の「小娘感」は若干気になるが、倫子=吉高由里子さんは割とハマっている。
設定?
33歳→30歳という「微妙に言い訳ができる年齢」に引き下げられたことで、確かに印象は原作よりもマイルドになったかもしれない。

しかし問題は瑣末なディテールではない。
違和感の本質は、女子を励まそうとする「いいハナシ感」にある。

原作ではひたすらタラレバ娘たちを奈落のどん底まで叩き落とすが、ドラマ版では「アラサー女子、応援するよっ☆」というように、文脈がすり替えられている。

第一話、倫子さん達がバッティングセンターに行くシーンで「なんかおかしいな…」と思ってはいた(←テレビドラマのオリジナルエピソード)。
原作の「ずっとベンチで野次飛ばしていて、いざ打席に立ったら全く打てない」というシーンから派生したエピソードだとは思うのだが、原作の「お前ら、現場で汗かけよ」というメッセージが「ツラいこともあるけど、がんばろっ☆」というヌルいエールにすり替わっている。

これは致命的だ。
『東京タラレバ娘』の本質を理解していない。
こじらせ女子たちにとっての「救いとは何か」をわかっていない。

原作を読んだ妙齢女子たちの感想第一位は、

「死にたい」

である(←ヒラク調べ)。しかしこの「死にたい」は必ずしもネガティブなものではない。
それはなぜか。

「今この瞬間、日本のどこかにワタシと同じく「死にたい」と呟いている同志がいる…!」

という確信が、妙齢女子たちの心をアツくし「ひとりぼっちじゃなければ、まだ生きられる」という希望を抱かせる。希望を抱いたと同時にKEYくんに「女子会で傷舐め合ってばっかで楽しいの?」となじられ、巻末で東村センセイに「そんな女子会ばっかりやってるアンタたちも嫌いじゃないよ!」と励まされるという「アメとムチ」に刺激されて、タラレバ女子たちは自分の立ち位置を確認する。

「死にたい…」と落ち込んだ深い谷底は暗く、上も下もわからない(ていうかそれより下はない)。ただ、目が慣れてくると、だんだん見えてくる。同じく谷底に落ちた者共の淀んだ眼の鈍い輝きが。そしてその相手の濁った眼に反射する、己の姿が

それが『東京タラレバ娘』における「救い」の正体だ。
「死にたい」という呟きが何十万、何百万とつながってできた絆(きずな)。
若干香ばしいスメルの絆かもしれないが、しかし同志たちと絆で結ばれていることで、僕たちは明日を生きていくことができる。

「死にたいね」
「うん、ほんと死にたい」
「でも、あんたが生きてるうちは、ワタシ死なない」
「じゃッ…、ワタシもッ…あんたが死ぬまで、死なないから…!」
「店員さん、ホッピー、ナカおかわり!ダブルで!」

それに比べてドラマ版の「仕事も恋も頑張るオトナ女子、応援します!」的なエールの空虚さはなんだ。代理店の三流コピーライターが適当に書き飛ばした嘘くささが横溢している。
そこには「死にたい…」という、地底の底から湧き上がってくる響きと怒り(byフォークナー)の切迫さは1ミリもない。安易な自己肯定などいらない。それよりも「地底人って、こんなたくさんいたんだ…!」という団結感が心の支えになる。

テレビドラマの空虚なエールに、僕は何も感じない。何も響かない。何も心に刺さらない。
完全なる無ッ…!もはや見どころはその「完全なる無」に抗う吉高由里子の、美人女優のカテゴリーを完全に逸した狂った高速頭突きやブサイク顔のみッ…!

人と人を結ぶ絆をバカにしてはいけない。
『東京タラレバ娘』は、フワッフワに浮ついた妙齢女子たちを谷底に突き落としたが、しかしその谷底において、強固な共同体が創出されたのであるよ。彼女たちは誰に応援されずとも、ふたたび谷を登ってくるだろう。

みんなで肩を組んで号泣しながら。

(おお、なんか伊藤潤二か諸星大二郎の世界だな。汗)

 

【追記】ちなみにドラマ版で僕がいちばん物足りないのは、マミちゃんのキャラの薄さ。世代と価値観が違う倫子さんとマミちゃんが衝突するなかで、タラレバ娘たちの不甲斐なさが弁証法的に浮かび上がってくるのが漫画版のハイライトの1つなのだが、ドラマ版のマミちゃんはただの小娘にしかすぎない。マミちゃんの何がスゴいかは、過去のエントリーをご一読あれ。

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