風景−自分の輪郭=自分

▶︎ 読みもの,

ヒラクです。こんばんは。また「方程式」かよ!と突っ込みが入りそうなタイトルにしてしまいました。すいません(僕こういう「理系」なの好きなんです)。
今から10年以上前、当時通っていた美術予備校のデッサンの授業で先生が「ヒラクくん、自分の手を描く方法って二通りあるのよ」と言いました。
いわく、「自分の手を描き込む方法」と、「手のまわりに見える景色を描き込む方法」の2つであると。面白いのは後者の考えかたで、見える景色を描いていくうちに、自分の手がある部分だけ空白になっていくじゃないですか。それが結果的に「自分の手の輪郭」になっていく。
引き算によって対象があらわになっていくわけです。
そして、さらに興味深いことに、「自分の手だけを描いたもの」と、「風景のなかにある自分の手のかたちの空白」を比べると、後者のほうがイマジネーションが働くんです。「テーブルとコーヒーカップが見える。仕事中なのかな」とか、「おおー、ノートルダム大聖堂が見えるぞ。旅行中か」とかね。「風景」と「その人」が一体となってイメージが豊かにわき起こってくるわけです。
さて、その時から、この「引き算の方法論」は僕のアイデンティティの基礎となりました。
で、昨日の話の続きになるんですが、「働くということの意味は、自分のなかにはない」。それって、「生きるということの意味は、自分のなかにはない」って言い換えてももよろしいのではないか…と思ったんですね。
なぜそうなのか。
それは、「自分の手持ちで理解するほど、世の中は単純ではない」からだと思うのです。
例えば、英語も日本語も通じない外国へ行ったときに、そのへんの人が喋ってる言葉の意味なんてわかりっこない。その時に、自分のなかにある記憶や体験を洗いざらい出して来ても、あんまり意味ない(と思う)。だってそれは今まで自分が体験したことのないまったくの「未知」のカタマリなのですから。そういう時はどうするのか。ちょっとしたことであれば身振り手振りかもしれませんが、もしそこに住んで人とコミュニケーションを取らなければいけない場合を考えて下さい。そこで僕たちが十中八九やるのが「マネすること」です。
相手の言っていることを、意味がわからないままマネをする。そして相手の反応を見て、「おお、これは『地獄へ落ちろ』という意味であったか」と知るわけです(それで痛い思いしたら、確実に覚える)。そういうことを繰り返すことで、意味を会得していく。やがて言葉が上達してくるとはじめて自分の「文法」というか「モード」を身につけるわけでし。
これが、「風景を描くことで、自分の手が浮かび上がる」ということであり、「自分を規定するものは、自分のそとにある」ということです。
「アウトプットからアウトプットが生まれる」の記事でも触れたことですが、英語だろうと日本語だろうと、長年蓄積されてきたシステムを借りて何かを表現する以上「自分だけの純粋な表現」は存在しないし、そもそも「自分の純粋な存在意味」は、誰かに認識してもらわないと成り立たない(なんだ、このねじれの構造は)。そして、認識してもらうために発するメッセージは、やはり何かの「システム」を借りるわけです。それが「ことば」でなくて「踊り」とか「音楽」とか「絵」とかであっても、やっぱりそこには「システム」とその上に乗る「モード」と「文法」があるわけです。(もしあらゆるシステムと関係ない「踊り」を披露したとて、「ほほう、アルトーね」とか言われちゃうかもしれないし)
…ということに思い至ってから、ヒラクはそもそも「生きる意味」を考えなくなりました。で、その手間を「システムの解析」に振り分けてみた結果、「自分の個性」とか「アイデンティティー」と呼ばれるものは、「システム」を作動させるうえでのちょっとした「クセ」であるとか、異なるシステムをミックスしたりマッシュアップしたりする「DJ的感覚」であると結論づけたわけです。
そしてそういう微妙な差異も、やっぱり隣のだれかの「いいね」とか「ヘボだな」とかいうジャッジによって発見されるわけで、やはり自分ではよくわからない。
何となくの感覚ですけど、いつも「〇〇のことを知りたい」とか「〇〇のことを助けたい」とか思っていジタバタしているうちに、事後的に「自分なりのクセとか感覚」が発見されてくると思うんです。
まあそんなもんなんです。自分の生きる意味とか、アイデンティティーって、「おじいちゃんのメガネ」みたいなもんだと思うんですよね。
「ありゃ、わしのメガネどこだったかな」
「おじいちゃん、おでこ、おでこ」
おやおや、そんなとこにあったのかい。

© 2023 All Rights Reserved