猫の「もみじ」がとりもちに引っかかった。
もみじ(←子猫♀)がとりもちに引っかかってしまった。
朝のゴミ出しにドアを開けたわずか数十秒のあいだに、玄関に仕掛けておいた「ネズちゃん対策」へ突進。とりもちのパッケージにある「ネズミがもがけばもがくほど絡め取られます」と描いてあるイラストを忠実に再現したところで捕獲されました。
泣き叫ぶもみじに小麦粉をくまなくまぶし、ごま油をよーくすり込み、キツネ色になるまでカラッと揚げる…ではなくて。
シャンプーでよく洗って、お湯で流すを繰り返して、とりもちを除去していきました。かかった時間、のべ約4時間以上。もみじは恐怖のあまり絶叫のち脱糞。
いやあ、猫ちゃんって間抜けだし、手がかかるよね。
でもね。
そこに「愛の本質」があるのですよ。
ビジネスの現場はもちろん、恋愛でも学校でも「功利主義」が人間関係のなかに深く食い込んでいる。発注側は受注側に「1円でも見積を安く」と迫り、恋愛では「オレ/ワタシの言うことを聞け」と迫り、学校では「どっちの方が上位カーストか思い知らせてやる」と迫り、関係性の構築が「パワーゲーム」になっている。
そんななかで間抜けな猫ちゃんに心を砕くことは、「あからさまに不合理」であって、お風呂場にてパンツ一丁で子猫にごま油をすり込んでいる行為はどう考えても自分に得はない。
得はないのだけれど、そこには「愛」がある。
一生懸命とりもちを落としたとて、もみじからすれば「長時間にわたって不快な行為をワタシに行った不届者」になるわけで、お風呂から出たらぜんぜん気を許してくれないわけです。
で、しょぼーんとしてお布団に入ったら、夜中忘れたころに足元にスリスリしてくる。
「これをしたら、あれを返してくれる」という損得勘定は、猫には通用しない。
ギブ&テイクというのは「ゲームのルールを共有したうえでの振る舞い」であって、それは本質的に政治or商取引なのですよ。
何かを愛でる行為というのは、本質的にギブしかないのであって、そこにテイクを期待しても高い確立で裏切られる。
猫ちゃんは、「ひたすら何かをギブする行為自体でおのれが浄化される」というチャンスを僕たちにもたらしてくれる。
「やっぱ愛だよな」と誰かがつぶやくとき、そこには「損得感情を超越した贈与の連鎖」という文化人類学における本質が示唆されている。人は見返りによって救われるのではなく、贈与するという行為の没入度によって救われるのですよ。
さらに猫ちゃんには、気まぐれになついてきたときの超絶的なまでのラブリーさという特殊能力まである。したがって、我々は猫に対して最大限の敬意をもって「よしよし」する義務があるのです。
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