工作室の考える「知のありかた」

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こんばんは。ヒラクです。
前回の続きで、もう一つ大事なテーマ。

僕の考える「知のありかた」。

教養云々…ではない、もっと生きた知を考えてみたい。

仕事をしていて、よく学者や専門家などのアカデミックな領域と、編集者やプランナーなどのコマーシャルな領域の中間に入ることが多いのだけど、この二つは一般的に言って、お互いのあり方に文句をつける(笑)。

アカデミックな領域は、たくさんの知識のデータベースを持つこと、つまり「知る」ということが大事だと言う。対してもう一方は、どうやって考えるかという「方法論」を持たないと伝わらないと言う。その板挟みにあって、僕なりの答えは、「どっちも同じくらい大事だよ」ということ。

方法論があれば何にでも対応できる、という最近の風潮は実は結構危険なんじゃないかと感じる。

というのも、世界には実に多様な領域があって、深く追求していくと簡単に一般化することができないことがたくさんある。

要は、この複雑な現実は簡単にはフォーマット化できない、という事実がある。

だからこそ、こんなにもたくさんの学者が日々研究室で悩んでいるわけです。

とはいえ、その膨大な知識は、あまりにも深く専門化されすぎていて、そのままでは他人に伝える事が難しく、さらに言えば、「どうしてその知識が必要なのか?」ということを説明できなかったりする。

だから、知識をどのように運用していくかという「方法論」が非常に大事になる。だから、知識と方法論のどちらが大事かというのはナンセンスなことで。

飛行機の両翼のように、その二つがうまく合わさらないと、現実をつかんで、人に伝えることができない。「知」のありかたに比較論は必要ない。AとB、どちらが大事かなんて決めることが「知」の役割ではない。

日常の些細な事柄から、マクロ経済の行方まで、大事でないものなど何一つない、そのことに気付くことこそが「知」であって、ちっぽけな自分と大きな世界が関連しあっていていることを認識する機能なんだ。小さなものと大きなもの、僕とあなた、わかることとわかってもらうこと、その間の接着点にあるのが「知」というものではないかと思う。

そしてもう一つ大事だなと思うこと。

本として活字になっているものだけが「知」ではないということ。

例えば絵にしても音楽にしても、そこに世界の見方が提示された「知の結晶」と言えるし、今あなたが座っているイスや机も、「座る」ということを考えた結晶物かもしれない。

今眠い目をこすりながらすすっているコップもコーヒーもそう。「知」は世界に無数に転がっている。考えてみること、それを現実に接着させていくこと、「コレ、よくない?」と提案してみること。机上の空論ではない、生きたかたちの知を意識したい。

「知の概念拡張」。これが小倉工作室の挑戦してみたい大きなテーマ。

どうですか皆さん??

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