僕は発酵・醸造に関わることを生業にしている。
最初は東京でデザイナーやっていた頃に趣味で始めたのだが、農大で微生物学を学び直し、山梨の山の中に引っ越し、発酵の本を出版し、日本全国の発酵文化を調査し、それが発展してお店になり、ついに仕事のフィールドが国境を超えて全世界になってしまった。
とうぜん一人でできるわけもなく、会社を立ち上げて今や一緒に働いてくれる人が十数人いる。
リアルなモノと場所を扱うので投資や資金のストックも必要で、銀行からお金を借りて事業リスクを身の丈以上に背負っている。
思えば遠くへ来たもんだ…と遠い目をしていれば済む話ではなくなってしまった。
僕は事業家になるには実務できなさすぎで、デカいビジネスやるぞ!という野心もあるわけでなく、ただただ発酵のことが好きすぎて成り行きでこうなってしまった。
さすがに個人でもうリスクを背負えない。もうここらでぼちぼち身の丈でやっていこう。
広げすぎた風呂敷を畳んで自分の見切れる範囲のことだけやるべきでは?…とここ2ヶ月くらい思い悩んでいたのだが、よくよく考えた結果、そうはしないことにした。僕には前に進むべき理由がある。
それは大義だ。僕には大義がある。
何度も何度も自分に問いかけてみた結果、なんと僕には大義というものがあった(びっくり)。
自分が良ければいい、ラクしたい。それを許さない道理があったのだ。
それはいったい何なのか?それを書き出してみるとだな。
■発酵・醸造の世界に恩返ししたい
体ボロボロで、仕事でも自分を見失っていた僕に進むべき道を指し示してもらったのが発酵の世界。
醸造家のみんなや農大の先生たち、各地で出会ったお母さんお父さんたちにバトンを渡してもらって僕は自分らしくハッピーに生きる道を見つけた。この恩義に報いるのがオレの生きる道…!
■地方が切り捨てられていくことを許せない
発酵は地方の文化。豊かな水と歴史のある土地で育まれてきた。けれどもここ数十年、地方はないがしろにされ、疲弊の限界にきている。僕自身が山梨の少子高齢化の激しいエリアに住んでいるのもあって、このまま滅びるままにはさせるわけにはいかない。僕のルーツである文化人類学や民俗学の先達に「地方こそが社会の心(ハート)である」と学んだ。僕が発酵の世界に関わり続ける大きな理由に「心を失ってはいけない」という想いがある。
■発酵という「記憶の方舟」を守りたい
常々言っているように、各地の発酵文化にはそこで生きてきた暮らしの記憶が刻まれている。発酵文化を紐解くことは、その土地の歴史、風土、起源を紐解くことだ。その土地で当たり前に食べられてきた発酵食を僕は「記憶の方舟」だと見なしている。僕が自分でリスクで背負ってお店や展覧会をやっている動機はここにある。トレンドに乗らないものでも、忘れかけられているものであっても未来に残していく意味がある。
■「みんなでつくる」ことで元気になる
手前みそをはじめとして、発酵は「コミュニティでつくる」文化だ。みんなで集まって季節を感じ、ものづくりの技術を交換し、美味しい時間をシェアすることが核にある。人がバラバラの個になりすぎている社会において「みんなでつくる」ことは力を持つ。人が輝く瞬間は、自分がお客さん(消費者)であることにとどまらず、自分で何かを生み出す瞬間だ。そうやって生み出した何かを誰かとシェアすることで人はさらに元気になる。この「生きる力の根源」を、僕は今世界中の発酵コミュニティ(Fermenterコミュニティ)に教えてもらっている。
■発酵は日本の未来の鍵だ
発酵って面白い! と思って十数年活動してみたら、周りに同世代、一回り下のセンス良くて情熱のある醸造家たち、発酵の実践家がいっぱいいる。伝統だけに囚われない新しいジャンルの発酵食品を開発していたり、海外に活動範囲を広げていたりする。研究機関でも日本が伝統的に培ってきた発酵の技術を応用して新しいバイオテクノロジーを開発している(し、実用化できる技術も出てきている)。過去の伝統を「守る」だけのフェーズは終わり、伝統を「活かして」未来をつくるフェーズに入ってきている。その中で僕と発酵デパートメントの存在はジャンルや立場の違う人たち(微生物たちも)の国際的なハブになってきている。
疲弊している地方と人の元気を取り戻すための、発酵は未来の鍵だと僕は確信している。
日本という文明全体は衰退していく流れにあるが、文明は滅びても人間は滅びるわけにはいかない。地域単位、コミュニティ単位で元気にハッピーに生きていく道を拓いていく時代に、発酵はひとつの道しるべだ。
僕の友人の醸造家たちは、逆境にも負けずいつも前向きで元気だ。
彼らの蔵で発酵する微生物たちのように、僕もたくましく生きていくぞ!
…ということで今年も背負えるだけのリスクを背負って頑張って前に進みます。でも僕重すぎる荷物ムリなのでみんな手伝ってね。
【追記】地方は社会の心である、を学んだのは民俗学からだけではない。インドの哲学者サティシュさんから「都会を”社会の頭脳”とするならば、地方は”社会の手足”ではなく”社会の心”である。本体は都会ではなく、地方なのだ」と教わった。サティシュさんからは「ヒラク君はハートウォーミングな人で在り続けなさい」との言葉も授かってるよ…!