ヒラクです。こんばんは。
さて、前回の記事「一般解なんていりません。」ですが、さっそくお姉様方からのご意見・ご指摘が何件かありました(皆様気を使ってダイレクトメッセージあるいは口頭で。気を使ってくれてありがとう)。「この書き方だと専門に研究している人から『こいつ何もわかってない』と思われますよ」と言われたので、本棚からその関係の本を何冊から抜き出してパラパラと読んでみる。
…ふーん、おお。あらあら、まあまあ。
そうなのね。いや?、これはずいぶん乱暴な物言いをしてしまったぞ(反省)。
気に障ったみなさま、失礼いたしました。
こういう「女性の生きかた」というのは、僕のような「男子」はとても語りにくい(なるほど、琳さんの言うことはこういうことね)。
というのも、「構造的な抑圧を明晰に言語化する」ことって「抑圧を感じている主体」から話されないと(一般的には)説得力無いし、「そもそもあんたが抑圧している主体なのではないか」という疑惑をそう簡単には取っ払えない。
そうなのですよ。
ヒラクとしては「なるべく他人にはストレスかけたくないわい」と思って生きていますが、例えば男性である、例えば先進諸国に生きている、とか当面の仕事があるとかの要因でもって、自分の主観的意識からは別のところで何かしらの「抑圧する側」になっている。これは断言してもいい。必ず「社会的に規定された自分」という立ち位置自体が本人の意思とは違うところで「メッセージ」になっていて、それが誰かに「しょうがねえなあ」とか「だからオトコは困るのよ」と思わせることは多分にあり得る。
でね。
さっき言った「女性の生きかた」についてあれやこれや意見を言った時に「まったく自分勝手なことばっか言って、だからオトコは困るのよね」と言われた時に取る態度というのが難しいのですよ(と今回気づいた)。
1つ非常にわかりやすい反応としては「オトコですけど、何か?」という居直りであり、これはある意味間違いなく「正解」なので、これで自己防衛できてしまう。だけどあんまり心象は良くないので(だったら余計なこと言うなよって思うし)、じゃあ他の反応を…と思うと、はてな?
「女性のこと(特に抑圧について)よく理解した男性」なんてものが果たして原理的に存在するんだろうか?それはどこまでいっても「被抑圧者を装った抑圧者」であり、「『いや?、全ては頑張ってくれている社員のおかげです』と言ってるわりには生かさず殺さずで人をこき使っている経営者・資本家」みたいな存在だったら困るな、と思うんですよね(ちょっとわかりにくい例えだけど)。
第三の選択肢としては、「いや、私はオトコではない」というアクロバットもありますが、「じゃあ何なの?」という次なる問が待っている(何なんでしょうね)。
てなわけで、色々と指摘をもらって時の僕の答え方は非常に歯切れの悪いものになる。
「オレはお前の敵だ」とも「お前の味方だ」とも言えない、という宙吊り感。
今回は僕があんまり知らないことに抵触するような形で色々好き勝手言ったケースだと思うんだけど、もし色々研鑽を詰んでものを言ったとしても、なんか上手く答える気がしないんだな。
それは上記の「自分がどこからものを言っているのかわからなかくなる」という構造的不安定さから来るものだと思われるのですよ。
「社会的に抑圧をかけてくるバイアス」について考えるときの難しさはこれだな。
世の中は分かりやすい悪者がわかりやすく悪さをしているわけでなくて、今悪者を糾弾しようとしている自分のなかにも悪者が潜んでいる(しかもそれは自分の人生の過程のなかで醸成されたもやもやとしたものであることも多い)。
さらにいま気づいたんだけど、僕の学んだ文化人類学(の古典)ってどう考えても「セクシスト」の思想だな(「女の交換」とか出てくるし)。おおお、僕のベースを成している思考方法は「セクシスト」だったのか。うぉオン。
…と反省しきりですが、しかしだからといって、原則記事を削除したり大幅に書き直すことはしないのです(ちょこまかは直すけど)。
なぜかというと、もしそれをしてしまうと「自分がそのとき考えた・感じたこと」に対して自分で「NO」ということになってしまうからなのです。
以前、++のフリーペーパーの電子版について訂正依頼が来たのですが、僕はお断りさせてもらいました(すいません)。ヒラクの基準ですが、訂正に応じるものと応じないものの基準があります。
応じるものは「事実に反しているもの」です。「ラクダ」が「シマウマ」だったら「す、すいません」と言って訂正します。で、応じないものは「僕の主観に基づいたもの」です。「だらけたラクダ」を「働き者のラクダ」に直せ、と言われたらお断りします。
だって、そのとき「だらけてる」と思っちゃったんだもん、僕が。
それを直しちゃったら自分が「自分の思ったように考える・感じる」ということが成り立たなくなっちゃうもの。で、それは僕じゃない。
そいつは困る。
というわけで、僕は2つのものを天秤にかけます。
それは、「思ったように考えて書く」ということと「バカに思われる」という2つです。
バランスは、まず小手先で取ります。つまり、「ちょこまか書き直す」です(姑息ですね)。
しかし、小手先じゃダメだ、と思ったら原則「バカに思われる」を取ります。
「バカに思われる」のは心苦しいですが、明日から学んで、ちょっとでもバカ度を減少させることはできる(と思う、たぶん)。でも「自分が自分であることにNOを出す」をやってしまったら、恐らく僕の進歩はそこで止まる。だから、「バカに思われても構わない」という風に納得する(言い訳するみたいだけど、そうやって自分が「バカである」ことを一旦認めないかぎり、ますますどうしようもなく人を傷つけることを言い続けるだろうし)。
僕は物書きじゃないし、何かの学問の専門家でもない。
でもいちおう「言論の自由」はある。その自由を獲得するための代償が「バカに思われる」ということなのですよ(開き直りにも程がありますね)。
そう考えると、webサービスのリリースのようにバカ度の履歴をつけていけるブログってメディアは、ヒラクにピッタリだぜ。半年後のヒラクは、半年前のヒラクを「けっ、こいつバカなこと言ってんなー」と思っていることでしょう(今もすでにそう思っている)。

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