「◯◯っぽいもの」が文化を終わらせる。イノベーションは「人間らしさ」のために
イノベーションの本質は、創造ではなく破壊にある。
で、エネルギーは、何かを破壊するときに発生する。このエネルギーを次の創造に活用する、というのがイノベーションに期待される意義だけれど、破壊の次に起きる創造が無条件に良いものであるかはまた別の話だ。
「のっけから何でまた禅問答のような話を?」
そうね。例えばみりんの話をしてみようじゃないか。
「◯◯っぽいもの」の氾濫
みりんは、お米と水だけで作られる。発酵の力によって、糖分を添加せずにメロンなどを凌駕する甘味をつくり出す驚くべき調味料。イメージしやすいように例えると「水のかわりに酒で仕込んだ超甘い甘酒」だと思ってもらえればいいかしら。
しかし、僕たちがふだんスーパーで見かけるみりんは、オリジナルのみりんからかけ離れたもの。元々の原料よりもたくさんの糖類やアルコールを添加してつくられる。安価で売っている「みりん風調味料」になると、もはや「みりんっぽい味」をシミュレートしたサムシングなのであるよ。
米と水だけでつくるみりんは手間がとてもかかる嗜好品であるのに対して、短期間で大量生産できる「みりんっぽいもの」は安い。だから広く普及し、もともとのみりんはほとんど姿を消した。
これは「技術発達によって破壊的イノベーションが起きた結果、オールドスクールなものが駆逐された」と言える。
で、ここからがポイント。破壊の後に生まれたプロダクトは美味しくなかった。
「人間の手仕事をマシーンによる合成で代替する」という、現代でいえば人工知能のアルゴリズム開発と同じ発想で技術革新をした結果はといえば、不味いプロダクトの量産だったのであるよ(とか言うと業界を敵に回しそうだが、美味しくないんだもん)。
イノベーションは何のために?
みりんに限らず、「◯◯っぽいもの」を安価で量産するという施策は、文化の衰退を招く。
そのメカニズムはこうだ。
「◯◯っぽいもの」がオリジナルのレシピを駆逐すると、「◯◯っぽいもの」がスタンダードになる。しかし「◯◯っぽいもの」はつまりオリジナルの劣化コピーであり、そこに官能性、もっと言えば「美意識」は無い。
美しくないものを手に取る時に、人が思うのは「どうせ買わなきゃいけないんだから、なるべく安く」ということだ。さらに安く量産するとさらにクオリティが劣化し、やがて「こんなものなら別にいらないんじゃないか」ということになり、そのプロダクトの文化自体が終焉を迎える(このロジックを究極まで突き詰めると、食事は全部サプリメントのカプセルでいいということになる)。
「なるべく多くの人に、なるべく安い値段で」という合理性が文化を終わらせるという現象が、色んなジャンルで起きている。
えーと、僕が何を言いたいかというとだな。
イノベーション=最高!ということではなく、イノベーションに対する峻別が必要、ということだ。従来の価値を破壊するときに、強いエネルギーが発生する。そこまではいい。
問題は「そのエネルギーが何のために放出されるのか?」という問いなのであるよ。
強いエネルギーが発生すること自体の快楽に満足しているだけでは、砂場で暴れる子どもと一緒だ。破壊のあとのガラクタばかりが転がるような社会はしょうがない。
技術革新のエネルギーは、人間らしい方向性に振り向けられなければいけない。それはつまり、僕たちの人生から「美しいもの」を取り上げてはならない、ということだ。
かつてないほど強力なテクノロジーを持った僕たちは、同時にかつてないほど成熟した美意識を問われている。「◯◯っぽいもの」に背を向けて、美しさのオリジンに向かう者は、新しい時代の哨兵なのだと思う。
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