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「説明」と「他者」。

最近、デザインの調子がいい。

イラストを描いて稼ぐようになったのが(お小遣い程度だったけど)20歳ぐらいだったから、だいたい10年ぐらいやり続けて、ようやく「このレベルまで行きたい」と思っていたアベレージに(ちょっとだけ)手が届くようになったような気がする。

で、飛躍的に「クオリティが上がったなあ」と感じているのはここ半年ぐらいの間。
ということは、ここ半年で何があったかを考えると「調子が上がる」方法論が見えてくることになりますね。

というわけで早速振り返ってみると、理由は大きく分けて2つ。

1つは、「仕事の単価が上がったから」。この記事でも説明しましたが、会社が発展していけるだけの対価をお願いするには、当然それだけのクオリティアップがないと相手としても困っちゃうし、僕としても申し訳ない。

というわけで、「もっと良い仕事をしないと」と意識的にも無意識的にも自分のキャパシティを上げていかざるを得ない状況になるわけです。

で、もう1つが最近はじめて気づいたこと。「チームで仕事するようになったから」。

一定以上の予算規模になると、CI/VI・WEB・広告・エディトリアルと、色んなメディアを横断する仕事が増えていきます。そうなると、当然僕ひとりで全部できないから++のスタッフと分業しなければいけないし、そもそも++ではできない仕事が発生してくるので(WEBのシステム構築とか、映像編集とか)、それを誰かにお願いすることになります。

専門家のチームをつくったら、みんなの力を最大限に引き出して良いクオリティ出すぞ!と思いますよね。

だから、プロジェクトの一番最初に大きく分けて3つぐらいの事を考えることになる。

1つ目は、「どういう課題を解決するか」←独立してからずっと習慣にしてきたこと。
2つ目は、「どういうチームを組むか」←最近重視するようになったこと。
3つ目が、「どういう風に進めるか説明する」←これが今日の本題。

ではこの3つ目プロセスについて考察してみましょう。

課題を設定して、チームを組んだら、あとはどうやってゴールにたどり着くかまでの道のりを考える。で、考えたことをクライアントはもちろんチームのメンバーに「説明する」ことが当然必要になってくるじゃないですか。

この「説明する」ってのがミソなのですよ。

まず仕事をお願いされたときに、「いったい何が問題になっているのか?」というのを考えて、担当のひとに説明する。

「素敵なパッケージをデザインしたいということはつまり、商品の価格を上げて収益率を上げたいということですか?」みたいな感じで(まあこんな簡単なケースはあんまりないけど)。で、説明しているうちに、相手方から「パッケージをその方向性に持って行くとなれば、当然サイトのリニューアルも…」みたいな話になったら、しかるべきチームを組むことになる。で、知り合いのWEB制作会社に相談することになるわけです。

そのとき僕は何をするのか。
「自分が考えたことをクライアントに話した結果を説明する」という、一段階メタな説明をします。

「これこれこういう事を相談されて、それに対してこういう課題を設定したら、こういう価値観で行きましょうということになったんだけど…」みたいに、「伝言ゲームの精度を上げる」作業をすることになる。なんとなく時系列で説明していくと一体何が要点がわからなくなるから、いったん時間軸をバラして論点を整理し、その論点に的確なワーディングをつけることが必要になってきます。

つまり、「伝言ゲームでも劣化しない、タフでシンプルな価値観」を常に意識するようになる。で、いざプロジェクトが始まったら、WEBチームや映像チームにこれまた色々と説明をする。

技術的な説明は向こうのほうが専門家だからそこは委ねるとして、初期段階で設定した「タフでシンプルな価値観」がWEBならどのように、映像ならどのようにアウトプットされるのかを説明する。ことばでも説明するし、図や絵でも説明する。そしてその説明もまたなるべくシンプルで明瞭でないと、状況がごちゃごちゃとしてくる。

…というわけで、最近のヒラクはとにかく説明ばっかりしているのですよ。

でね。そんなに説明ばっかりしていくと「理屈くさくなる」みたいな危惧もありそうですが、ことはそんなに単純ではなかった。

「説明しまくることで、無意識化にいるもう一人の自分が覚醒する」

言語化するならば、どうやらそんなことが自分のなかで起きていたようなのでした。

ちょっと飛躍するようですが、話の次元を1つ深めましょう。

自分の行動って大半「無意識化の自分」がハンドルを握っているんじゃないかと思うんですよね。

特に自分の人生を長いスパンで見てみると、転機になったことは「自覚することなしに選択されていた」ことに気づくことが往々にしてある。「その転機は、他の人がもたらしたものじゃないの?」というツッコミもありそうですが、それも考えてみれば「なぜかはわからないがその人とコンタクトを取ることが必然なように思えた」という、その時の不思議な感覚が自分をドライブしていたことに思い当たったりします。

そういう「無意識化の自分」を強く感じるのは、デザインをしている時なんですよ。

どういうメカニズムがわからないけれど、デザインをしている時、あるいは考えているとき、ある瞬間にテコになるアイデアがポーンとやってくる。思いがけないときに、突然。理論の積み上げとはまったく別の角度から、一見すると意味不明なボールが飛んでくる。

いったんそれが出てきてしまうと、なぜかそれを基準にして物事が回り始めてしまう。

で、そのアイデアを検証してみると、なぜか一周まわって論理的にも整合性があったりする。
そういうアイデアについて、どうしても「自分のもの」とは思えない。もうちょい厳密にいうと、「自分の自我」から生まれたものだとは思えない。

おそらく、自分がぜっっったい意識化できないところに「もうひとりの自分」がいる。

空間的にものを捉えて、つねに直感的な判断を下す「マクルーハン的アメーバ自己」みたいなものが、中長期で振り返ったときに重要な人生のハンドリングをしている。
それでね。
そいつはけっこう「寂しがりやさん」なのですよ。
恋人に「よしよし」してもらうみたいに、「自分のことを認めてほしい」願望を持っている。じゃあどうしたら認めてあげられるかというと、「言語化して説明すること」なんですよ、これが。

▶直感でなにか思いつく→実行する。
これがデザインのプロセスのなかでは、
▶直感でなにか思いつく→クライアント/チームのメンバーに説明する→実行する

になって1ステップ増えます。

でね。
この「他のひとに説明するプロセス」の裏で実は、「もうひとりの自分」を「よしよし」しているんですね(と、今書いてて発見した。そうだったのか)。

「ワタシのこと、わかってくれたのね。嬉しい」。

他のひとに物事をちゃんと説明できた瞬間に、実は自分のなかにいる他者にも何かを語っている。

で、そうなると、「もうひとりの自分」がさらに張り切ってくれるのですよ。
より予測不可能な角度から、とんでもないボールをぶん投げてくるようになる。そうなると、それを説明するために、よりソリッドなロジックをひねり出してみんなに説明することになる。そうなると、次はさらにトリッキーなボールが配球され、そいつを説明するためにさらにソリッドかつタイトなロジックを…という無限連鎖がはじまり、意識上の自分も、無意識化の自分も覚醒していく(たぶん)。

その結果、「最近の僕は調子がいい」という現象が起きる(んだろうね、たぶん)。

人は他者との対話によって、常に上の次元に導かれていく。そしてその他者には二種類あって、物理的な他者と、自分のなかにいる他者がある。

…あら、なんかランボーの詩みたいでカッコいい結びになったわ。
仕事をご一緒してくれている皆様、どうもありがとうございます。
良い仕事をして、恩返しできるよう頑張るぜ。

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