「センス」、このやっかいな代物。
春ですね。ヒラクです。
唐突ですが、デザイナーって「センス商売」なんですよ。
もちろん、基本的な対人マナーとか、相手の要望をちゃんと汲み取るとか、パソコン使うスキルとか、印刷技術に関する理解とか、ロジックを整理するとか、デザインを成り立たせる必要条件はたくさんある。
でもね、絶対条件は「センス」なの。
この女神を味方についてくれないと、ある水準以上の「デザイン」と呼ばれる仕事はできない。
別に「お洒落である」とか、「ゴージャスである」とか、「最先端である」とか、そういうものイコールセンスというものではない(というか、そういうものを無目的に目指している時点で「センスの女神」は去っていく)。
じゃあなんなの?
うーん、よくわかんない。わかんないけど、たしかに「ある」。
やっかいなことに、センスとは定義不明であるし、管理不能の「よくわからん」ものなんです。じゃあそれは一体なんであるか?…という定義は誰かにお任せするとして。
僕が最近思うのは、「センスに逃げられたひとは、どのようになるのだろう?」ということ。
年齢がずいぶん上の、いわゆる「センス商売」的な仕事に長年携わってきたひとたちと出会ったり、仕事をするときに、しばしば感じることがある。
「ああ、この人からはセンスが去ったのだな」と。
経験もある、能力もある、ネットワークもある、コミュニケーションにも長けている。
でも、センスは見当たらない。「かつてセンスの女神とお付き合いしていたのかしら」という、「不在の気配」が濃厚に漂っている。
ではなぜセンスが去ってしまうのか?…という考察もまた誰かに任せるとして。かつて傍にいたセンスが去った後、人はどう思考し、振る舞うのか?それが気になる。
恐らくセンス商売に関わってきた身であれば、「かつてあったものが無くなった」という感覚を必ず自覚する(はず)。そのうえで、状況にどう対処するかというと、【A】実は弱気になっているだけで、実はまだ女神は去っていないと思い直す、【B】あたらしく認知されるようになった女神を認めない、【C】状況を受け入れ、セカンドライフに入る、の3つがあり得るのだろうな、と思うんです。
で、【A】のひとは、かつよりむしろさらに景気良く振るまい、「声のでかいひと」になる。【B】のひとは、一見若い世代をウェルカムしながら、スキあらば説教かます「めんどくさいひと」になり、【C】のひとは、仙人になるか、あるいは懐の広い「育成者」になる(でしょうね、たぶん)。
この違いを認識することって、意外に大事だと思う。
「センス商売」をはじめたばかりの、駆け出しの青二才が活動を続けるなかで、折々に「先輩(と思われるひと)」に遭遇します。で、その時、ファーストコンタクトの時点で、「いったいかの人は、なぜとるに足らない若輩者とコンタクトを取るのであろうか?」というモチベーションの種類を判定しておかないと、笑えない事が起こることが(けっこう)ある。
双方の未来のためにも、望ましくない「徒弟関係」は回避されるのが好ましい。
「経験を積んだ先輩から、若者は学ぶべきことがたくさんある」。
これは全くもって正論なのだけれど、その正論を隠れ蓑として「すでに無効になりつつあると薄々自覚しているものの正当性を、立場上NOを言えない他者を使って証明しようとする」という欲望を達成しようとすることが、往々にして起こりうる(と僕は思う)。
「センスの女神が逃げていく」というのは、かようにも自分の根底をゆるがす、由々しき事態なのだと思う。だから、きっとこういう欲望の回路は多くのひと(もちろんヒラクも含む)のなかにも内蔵されている。
というわけで近い未来、幸運にも「センスの女神」が微笑み、そしてその後それを失った「おっさんヒラク」への戒めとして、いまこのブログに記しておきます。
【追記】もちろん、ずっと女神が去らないひともいるし、ふたたび違う女神と出会えるひともいる。今日このエントリーを書いたきっかけは、自分のブログの整理をするなかでこの記事で取り上げた「ビザンチウムの夜」を再読したから。「センスの女神」が再び微笑むためには、一度「死ぬ」ところまで行かないといけないという、非常に味わい深いお話。アーウィン・ショーは「スルメイカ」系のストーリーテリングが本当に上手い。
興味あるひとはぜひ読んでみてね(ヒラクは、再読して一回目とはまた全然違う感想を持った)。