大人の「ひとりあそび」としてのブログ。

▶︎ 読みもの,

6年のうちの大半が「誰も読まない時代」で、一日せいぜい何十人が読めばいいもんだった。で、誰も読まないのに何で延々と続けていたかというと「自分のために書いていた」からだ。

デザイナーとしての僕の仕事の本質は「深く考えること」なので、そのための日々の訓練であり、忘れっぽい自分のために「あの日あの時あの場所で僕は何を考えていたか」ということのアーカイブなのね。

ところが。続けていると状況も変わるわけで。
今は一日1,000人とか、多い時は何千人という人がこのブログを読む(統計的には)。こういう状況になってもなお「自分のためだけに書いてます( ー`дー´)キリッ」というのは欺瞞だと思うわけよ。

ということで、読む人のことも考えて書きかたやテーマを工夫するようになるわけだ。
それが誰かにとって喜ばれるのであれば、とうぜん嬉しい。

なのだけど、そもそもが「自分のため」だったわけなので、そこに戸惑いが生まれる。

えーと。この感じ、うまく言えないんだけど。
ブログを書くということは僕にとって「ふだん浅いとこで止めている思考を、外部のノイズを取っ払って水面下まで掘り下げる」という実験であって。
結果としてそれは僕の仕事に役立つんだけど、どちらかというと子どもの頃の「ひとりあそび」の延長なんだよね。

子どもの頃に、地面とか水辺とか雲とかじーっと見つめて、虫とか植物とか水の流れとかを観察していたことが誰しもある(はず)。あるいは、風邪で寝込んだ時に天井を見つめながら「なんで僕はお父さんとお母さんから生まれたんだろう?死んだらどうなるんだろう?」とかエンドレスに考え続けていたことがある(はず)。

これはオトナの社会のなかで「そんなことはいいから早く宿題やりなさい」と片付けられる類の行為。個別的かつ無目的な「ひとりあそび」だ。

僕はその「ひとりあそび」を人生のどこかの部分でキープしておきたかった。で、それがたまたまブログというかたちを取ったわけだ。そして楽しく遊び続けていたら、砂場のまわりに人だかりができている(←いまココ)。

「つまり、うんざりしているってことか?」
「いやいや、『表現ってつまりこういうことですよね』ってドヤ顔したいんじゃないか?」

まあ。どっちの気持ちも無いとは言えないけどさ。
なんて言えばいいんだろう。

子どもの「ひとりあそび」は「お祈り」に似ている。
対して大人の「ひとりあそび」は自分の内面で完結するのではなく、不思議なメッセージ性を帯びることになる。

もうちょい説明してみよう。

ブログを書くことによって僕は「かつてあり得たかもしれない自分」や、「既にこの世にはいない、あるいはこれから生まれるかもしれない誰か」にシグナルを送っている。

・ワタシとワタシの間の密かな対話。女子ブロガーの才能はまぶしい。

そのためには矛盾しているようだけど、「自分だけの砂場」あるいは「普段出会えない者と出会える沖縄の霊場」のような場所で、「ひとり」になることが必要になる。

子どもが自然を観察したり、死んだ後のことをイメージして「ひとりあそび」をするのは「自分のいのちの前後」にいるであろう他者、つまり「かみさま」と遊びたいからだ(だからぼーっとしている子どもはどこか「かみさま」に似ている)。

大人になった僕は、もう直接「かみさま、遊ぼうぜー」ということはできない。
そこで、子どもの頃の自分やかみさまの世界にいる者を「ことば=思考」によって呼び出し、迂回したかたちでそこのアクセスしようとしている。

この「迂回する」という経路には社会性がビルトインされている。「迂回するさま」は、見知らぬ誰かにとっての「コンテンツ」になってしまうのだよ、なぜか。
ただしそれは「有益な情報をもたらすコンテンツ」とは違う。「有益かどうかで自分の行動を規定する」というルーティンを外し、受け取る人なりの「ここには存在しないけど自分にとって必要な誰か/何か」を呼び出すためのトリガーとしてコンテンツなのであるよ。

と考えると、このブログを読んでいる1,000人というのは「有益な情報を発信して獲得した読者」ではなく「砂場で思い思いにひとりあそびをしているゆるい友だち」のような存在なのかもしれないですね。どうですか皆さん。

 

【追記1】ブログを読んでくれる人の数というのは己の「砂場の設計力」を測る指標なのかもしれない。

【追記2】いい感じでおじいちゃんになったら、また「ぼーっとする」ことができるようになるのではないかと期待している。

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