表現のリソースを枯渇させないためには、ノイズを発生させる必要がある。

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いわゆる「クリエイティブ」と称される仕事をしていると、よく「インプットとアウトプットのバランスを取る」なんてことがよく話題に登ります。

そんでね。
つつつ、ついに来てしまいましたよ。
インプットのリソース枯渇」という現象が。

ここ2年ばかり、寝ても覚めてもデザインしたり原稿書いたり、イベント出たりという「アウトプット」を過剰にやりすぎたために、「なんかもう、自分の中から何も湧き出てこないかも」と感じはじめてしまった。
このままでは近々、何かをアウトプットするたび「雑巾ギリギリ絞る感」を感じてしまうであろう。

これはよくないぞ。

思えば小さい頃から本の虫で20代後半まで色んな趣味に没頭してきたので、まあまあ「インプット地下水」の蓄えは豊富かも…と思っていたが、マズいですセンパイ。干ばつの気配到来してますセンパイ。

「とか言って、相変わらず本読んだり調べ物したりしているじゃないか」
「色んなところいって遊んでるじゃないか」

いや違うんすよ。
現象としてはそうなんだけど、それは仕事に付随してくる「リサーチ」であって、本質的に何かを「インプット」している、もっと言えば「引き出しを増やしている」のではないのだな。

「必要があってやっている」のであれば、それはどんなに生産性がありそうに見えても、その人の創造性の泉を潤すことはないのである(←おっ、ちょっと文学的な表現だ)。

「いや、ヒラクくんの言っていること、よくわかんないから」

そうかい。じゃあ聞いておくれ。
表現者にはその道の「プロ」と「芸人」の二種類がある。そのうち、僕のような芸人には、「ノイズ」が芸を成り立たせるために必要不可欠なのね。

このノイズってのは「別のジャンルの情報が紛れ込んでいる状態」のこと。僕は微生物や発酵の専門家として話をするときに、デザインとか、文化人類学とか、恋愛の与太話とか、スラムダンクの話とか、専門に直接関係ない話をいっぱい差し込む。
つまり、今までのキャリアや、趣味で蓄積された知識と発酵学を結びつけていくわけね。「いっけん関係なさそうな話が結びつく瞬間」を演出していくのがつまり「芸」なわけで、そのためには「いっけん関係なさそうな話=ノイズ」をたくさんストックしておく必要がある。

(余談だけど「その道のプロ」にはこういう要素は不可欠とはいえないかもしれない。専門の話を深く鋭く突き詰めることによって、王道的な魅力が出てくるわけだし)

もちろん専門領域のトレーニングもしっかりやっておくのが基本なわけだけど、そのうえでいかに適切にノイズを発生させておくかということが「芸人の芸人たる所以」をキープするうえで肝要。

で、話を戻す。
この「ノイズを発生させ続ける」ために、本質的な意味での「インプット」が必要なのだね。直近の仕事と関係ない本を毎日10ページでもいいから読んだり、何の用事もない旅行に出かけたり、半日何にもしない時間をつくって散歩したりとか、日曜大工や畑仕事をするとか、そういう「無目的な時間」をちゃんと確保しておくこと。

これが積み上がってくると「その人なりの思考の手クセ」みたいなものが構築されてくる。専門領域のメソッド×その人の手クセの掛けあわせで「その人らしさ」が認知されていく。

大事なのは、曲そのものではなく、背景に薄く鳴っている「ノイズ」。この音質が、「らしさ」をつくっているのかもしれない。

(…と思ったので三連休は新島行って遊んできました)

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