学びについて。自分は自分が規定するよりもずっと自由なのかもしれない。

▶︎ 読みもの,

気がついたらちゃんとブログを書くのが久しぶりになってしまった。
なぜそうなってしまったのか。

告知することが山ほどあったので、そっちの更新ばっかりになってしまったのが一つ。あとは、農大での麹菌培養に思いのほかハマっているのが大きいんですね(週三で研究室に通ってるし)。

そんなわけで、当初の「働きながら学ぶ」というイメージは、フタを開けてみれば「学びながら働く」というようになっている(ここ一ヶ月のヒラクのサテライトオフィスは農大の図書館)。

やっぱり学ぶことは楽しい。

元から勉強が好きな性格なので、社会人になってからも読書や調べ物はしていたけれども、それは「仕事の成果を出すためのもの」だった。

「仕事のなかで学ぶこと」は、本質的にはできない。

「いやいや、仕事を通して知識を得たり成長したりすることはあるでしょう」
うん。それはその通りなんだけど、その発言は「学び」の本質を見誤っている。は、「学び」は「◯◯のため」に存在した瞬間に「学び」ではなくなる。それはつまり「訓練」なんだな。

「学び」は、「学び」として独立しているのであって、何かの目的(例えばキャリアアップするとか)のための手段じゃない。

さらに言えば、「◯◯のためには××をしなければいけない」という自明の方程式を破壊するような新しい考えかたに出会うことが「学び」の本質なのだと僕は思う。

そういう意味では、「学び」はとても「遊び」に近い。

だってさ、「今のこの飲みの席は、契約を獲得するためのものであり…」という状況はもう「接待」じゃん。無事契約が終わって休みになって「よーし!今度はひとつ、冬の八ヶ岳を踏破するぞ」とワクワクするのが正しく「遊び」なわけで。

ということで。
僕は十年ぶりに、心底楽しく「学び」を満喫している。微生物たちの生態のひとつひとつが面白くてたまらないのですよ。その心躍る感じは「この知識は何に使えるか」というプラクティカルな計算の入る余地がないほど強烈なんだな。

「学び」を重ねることで、理想とする自己像へ近づける。そういうキャリア志向もまあわからんでもない。
でも。僕にとっての「学び」はそのキャリア志向をそっくり裏返したものだ。
「学び」そのものが自分の進むべき道を指し示してくれる。理想の自己像というのは、後付け。まず最初に「学び」という、本来は何の目的もない「遊び」がある。それを経るうちに、知識や人的ネットワークを「いつのまにか」手にしている。で、その手をじっと見ているうちに、「なるほど、僕はこうやって生きていけばいいのか」と改めて気づく。

「学び」を飼い慣らせると思った瞬間に、実はその人は「学び」から遠ざかってしまう。
自分が学ぼうとする領域の知の体系は、何代にも渡って偉大なパイセンたちが積み上げたものであって、自分が見ている部分は巨大な氷山の一角にしか過ぎない。
「学び」という行為のキモは、その行為を通してパイセンたちが構築した集合知にアクセスすることになる。そのときに「学び(及び偉大なパイセン達)」が告げるのは、

「オマエはもっと自由だ。」
「オマエはもっと遠くに旅できる」

という、「斜め上すぎる角度」からの気づきなのであるよ。
そしてその気づきには人の数だけバリエーションがあり、そのバリエーションを俯瞰してみるとその人なりの「個性」というふうに定義できるのだな、と思う。

自分の進むべき道は、わからない。

だからこそ人は学ぶ。「わからない」という不安定な状況の学びは、不思議なことに「苦役」ではなくて、子どものころの「遊び」のようにキラキラと輝いている。

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