分相応のクオリティ。

▶︎ 読みもの,

仕事柄、よく「クオリティ」とか「価値」って何ぞや?と考えます。
で、最近じわじわと「自分の考えるクオリティ」みたいなものが姿をあらわしているような気がします。まだうまいワーディングにまとめられてないんですが、一言でいえば「エゴに引きずり回されない価値=分相応のクオリティ」というような感じです(暫定)。
「美しいもの」、「価値あるもの」を求めるのは、基本人間の本能と言ってもいいと思うんですよね(どんな文明でも祭具やカリグラフィ、壮麗な神殿とか、「ハイクオリティ」を求めるものをつくってるしさ)。
それは現代でも全然おんなじ(というかよりハードコア)で、お風呂イスとか耳かき1つ買うんでも、「可愛くて、ハイセンスなもの」を追い求める。
で、そういう「クオリティを追い求める欲望の対象」をつくる職能であるデザイナーは「さらに先へ、もっと遠くへ」と頑張る。これが僕たちの仕事なのよ。
…とほとんど言語化する必要のないぐらい「当たり前のこと」として、欲望という名のエクスプレスに乗り続けてきたわけですが、僕はさいきんそれをいったん括弧に入れて考えてみたいなと思うんです。
具体的な話をすると、たとえば「SMALL WOOD TOKYO」のプロダクト。
皆様ご存知のとおり、このブランドは、通常言うような「デザイン」はほとんど施されていません。ほとんど「まんま」といっても良いほどの佇まいです(ただし製材されるまでの過程は高品質ですが)。
実はブランド立ち上げの初期段階に「付加価値が付くようにお洒落にデザインしたほうが良いのでは?」という議論もありましたが、安田さんと色々考えたすえに、それはやめました。
無垢の木の素材を活かし、林業や製材業に適正な利益を還元でき、かつ何とか普通の感覚で買える値段を維持するためには、「デザイン」の費用を上乗せすることができないのです。
だから「まんまでOK。まんまで共感してくれる人と商売しよう」と開き直りました。
デザイナーのくせに、「デザインをあきらめる」というある意味矛盾した決断をしたわけです。
でその結果、ステレオタイプな「民芸調」でもideeのような「ハイセンス」でもない、なんともいえない味わいのあるプロダクトが生まれたわけです。
民芸でもデザインプロダクトでもなければ、じゃあ無印?というには、あちこち節の穴が開き、色にはムラがあり、沿ったり割れたりする(だって、生きているんだもん)。
そして、そういう必ずしも「上質」とは言いがたい木材を活かすために、製材師たちがいっしょうけんめい手をかけて、日々の暮らしになじむプロダクトへと磨き上げていく。
そうやって手をかけているから値段は当然それなりになっていく(高くないとはいえ)。
普通の発想であれば、これは「合理的」であるとは言い難い(デザイナーであるヒラク的には)。最初っから、「もっと良い木材を使おう、もっとハイクオリティなデザインを施そう、そしてデザイン・コンシャスな人に買ってもらおう…」とするえば良いはずなんですけど、どうしてもそれは納得できなかった(地営業者であるヒラク的には)。
さて。ここからが今日の本題です。
人は「よりハイクオリティなもの」を求める。それをまず認めよう。
認めたうえで、「果たして僕たちは分不相応にクオリティを求めていないか」と問いかける。
SMALL WOODが生まれた背景には「植林した山をほったらかしにした」という歴史がある。
なぜほったらかしにしたかというと、「遠くの木材のほうが安くて質が良い」とか「新建材が出てきた」という理由があるんですよ。つまり、「(値段に対する)クオリティを求めた」結果、クオリティ競争に敗れた山々が取り残されたわけです。そしていま、「花粉症の原因になるから」といって、未来が見えないまま無造作に切られていっている。
そして、ほとんどの木材は合板や集成材という「生きてない木」になり、高級家具は「日本には生えていない木」で作られるようになった。
…とブログに書くと「不自然だ」とか、「何とかしなきゃ」とおもいますよね。
でも、こういう状況をつくりだした少なからぬ原因は、僕のなかに(そしてあなたのなかにも)ある「クオリティを追い求める欲望」なのです。行政の策略でも商社の陰謀でもない。
ロジスティクスやテクノロジーの発展がある臨界値を超えた時点で、「遠くのハイクオリティ」をどんどん手もとに引き寄せることができるようになった。
その結果どういうことになったかというと、遠くのクオリティを享受しているうちに、近くのリソースが枯渇していくことになった。つまり、遠くのクオリティを求める行為は、近くのリソースの未来を前借りすることによって成り立っていた。
そういうことを少しづつ理解していった時に、ヒラクはこんなふうに思いました。
「果たして、僕はこんなに無制限に『クオリティ』を追いかける資格があるのだろうか」。
今手にしているSMALL WOODは、そういう欲望のオーバードライブに対しての問いかけとして生まれてきたのではないか。
とするならば、デザイナーとして僕は何をするかというと、「自分の価値観をリデザインする」ことになります。「まだ見ぬものを追い求める」ことを見なおして「いま自分の足元に横たわっているもの」に対して「価値を掘り出す」というか、「価値があることにする」みたいな作業に集中することにしたんですね。
そうやって、自分たちがたどってきた文脈をほどいていって、手直しするものと受け入れるものを整理していったときに「エゴが消えていく」感じがありました。
一見ブサイクと思っちゃうかもしれないが、それはそれで先入観かも。
だから、無理に整形するのではなく「愛嬌」と言い換えるようにしよう。
…そういう感じで、節のある曲がった木材や、夏に突如爆発する発酵食品をごく自然に「アリ」としていくことが、来るべき次世代の「クオリティ」と定義してみる。
僕たち++は、自前のプロジェクトを通してそんなアクロバットを企んでたりするのです。

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