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運命の出会いについて

全国行脚がようやく終わった。
一週間で、山梨→神戸→京都→福岡→山梨→東京→長野→山梨という強行スケジュールで、ここまで移動し続けるともはやブログどころじゃないことがわかったぜ。

さて。そんな感じで全国あちこち行って仕事をしていると、色んな人との出会いがある。
その場で終わる出会いもあるし、予想もしない展開を見せる出会いもある。なかには、人生を左右するような「運命の出会い」もある。

ということで、今日は「運命の出会い」についてかねがね思っていることをノートしておきます。

運命の出会いは、その瞬間にはわからない

例えば。
20歳のときに出会って僕にアートの世界への扉を開いてくれたユーゴスラビア出身の画家、ミルコ。あるいは、大学を卒業して最初に入社し、仕事観をつくってくれたスキンケア会社、あきゅらいず美養品。僕の発酵デザイナーへの道を開いてくれた五味醤油。倫理と美意識の両立を教えてくれたかぐれの敦子さんと仲間たち。

自分の人生を左右していくような「運命の出会い」がいくつもあった。
振り返ってみると、その出会いには、共通点がある。

それは、「出会った時には、それが運命の出会いかどうかわからない」ということ。
なんとなく出会い、なんとなく仲良くなり、いつしか自分の人生の一部になっていったのですね。

自分でコントロールできないから、運命なのだ

「出会った瞬間にガツンときた!」的な出会いもあります。
「これはスゴい出会いだ!これから何か始まるに違いない」。出会った瞬間からそういう高揚感をもたらしてくれる出会いは、実はそんなに長続きしなかったりする。

なぜそうなのか。
「これは運命の出会いなのだ」と自分で意識している時点で、それは運命ではない

運命とは、自分の中から生まれてくるのではなく、自分の外からやってくる。それが運命であると気づかせないように、さりげない風を装って

出会って何年も何十年もたって、ようやくそれが運命「だった」ことに気づく。
そのようにして、運命は自分の中に深く根を下ろす。

瞬間的に感動するのも幻滅するのも、いかに強烈な感情を呼び起こそうとも、それは実は人生における「点」でしかない。運命はそういう「点」とは関係なく、時間をかけて「面」に染みこんでいく。

なぜ運命はそのような振る舞いをするのか。
その答えは、僕に「全ての出会いに対して敬意を払う」よう仕向けるためにある。

たまたま立ち寄った旅先で一言二言交わすだけの出会いであっても、そこには運命の神が潜んでいるかもしれない。それが運命であるかどうか、僕には判別できない。判別できないからこそ、全ての可能性に対して僕は敬意を払わなければいけない。

運命の出会いは、全ての出会いを輝かせるために存在している、のかもしれない。

 

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