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読みの整理学

外山滋比古(とやましげげひこ)さんの著書、「読みの整理学」。ここには、
自分の言語化がうまくできなかった「?」が明晰に語られている。というわけで、久々の書評(的なもの)。

外山さんは「思考の整理学」という本が、とある書店員の書いた「もっと若い時に読んでいれば…」のPOPのよってオーバーグラウンド化した言語学の重鎮(もうすぐ90歳だそうです)。

この「読みの整理学」は重鎮が「読む」という行為を分解のち再構築した「和室のちゃぶ台に正座したソシュール」とでも言いたくなる明晰なことばが詰まった一冊なのですよ。論点をかいつまむと「『読む』という行為には2種類ある。『知っていること』を読む『アルファ読み』と、『未知のこと』を読む『ベータ読み』の2つである」。

文字面だけ眺めると「ふーん、そう言われてみればそうかもね」という話なのですが、実際この2つを文節化して定義付けするためには、「自分の思考の動きを他人事のようにスキャニングする」という高等技術がいる。この本では、そういう高等技術がたぶん「高校生ぐらいでも読める」程度の読みやすい文章に落とし込まれている(こういうのを、「芸」と呼ぶ)。

外山さんの言いたいことは、シンプルだけど奥が深い。「わかることを読めるのは当たり前である」。だけど「そこにあえて『読む意味』はあるのか」という懐疑があり、むしろ「『わからない』から『読む』のではないか」という、非常にラディカルな問いがある。

この本の中には、「素読」という作業が繰り返し出てきます(これは、漢文を意味もわからず読み下しして「暗記する」という非常に古典的な読みの方法論のこと)。外山さんは言語と認知に関わる問題を考え抜いたうえに、この「素読」という一見非合理的な行為を認めるようになる。つまり、「意味がわかる前に、身体(聴覚)に叩き込む」ということに対して意義を見いだす。

これはものすごい認識だと僕は思う。

つまり、「自分がなにかを理解する」という現象を括弧でくくり、「理解しなくてもなお、ひとは何かを認識することができる」ということを理解する。そういう「超メタ」な領域に立っているわけです。

昨日の記事の続きになりますが、人は「できないものが、できる」、「わからないものが、わかる」という可能性に対して常に「開かれている」。「今わかるもの」に固執すると、その可能性に対して扉を閉ざしてしまう。そんな時、僕たちはどうすればいいのか。外山さんは「繰り返せ」、「耳に叩き込め」と言う。つまり、脳の理解の前に、フィジカルに理解させる。

人生のなかで色んなフェーズを経るあいだに、ふとした瞬間にその「フィジカルに叩き込んだ記憶」と「人生の経験」が出会って「深い理解」に至る、というように、外山さんは常に認知というものに「時間軸」を持ち込んでくる。そういう視点がとっても「オトナ」なのですよ。
この「読みの整理学」を読み終えた後に、僕はデザイナーの杉浦康平さんに会ったときのことを思い出した。「ことばは、文字じゃなくて『声』なんだ。深い底からやってくる『響き』がある」と杉浦さんは言った。そうなのでした。「ことば」は脳に届く前に、身体に届いている、のかもしれない。

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