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梨木香歩 『からだとたましい』


梨木香歩。

「沼地のある森を抜けて」を読んでから、ずっと心に引っかかっている作家。
元は児童文学出身で、「西の魔女が死んだ」が映画化されて話題になった。
「からくりからくさ」やエッセイの「ぐるりのこと」も面白いけれど、
今回は「西の魔女が死んだ」と「沼地のある森を抜けて」を中心に梨木さんの世界を考えてみる。

彼女の作品を読んで感じるのは、「からだ」と「たましい」の関係性の微妙な揺らぎだ。
そしてもう一つ彼女の世界を特徴づけているのが、感覚だけではない理知的な考察。
しかしその対象は、「魔女と植物」や、「糠床と微生物の世界」など、
科学的なようなおとぎ話のような、壮大なスケールのような生活に即した狭い範囲のような、不思議な領域で思考し続ける。

それはなぜか。

恐らく梨木香歩は、常に作品を通して「自己」と「非自己」、
そして「たましい」と「からだ」という二つの矛盾する概念の境界に踏み入ろうとしているからだ。

初期の児童文学を読んでいると、正直男子の僕が読むには恥ずかしいくらい「オンナノコの感性」が全開なのだが、「西の魔女〜」あたりから、女(男)という性を持つ人間の生理の不気味さと、清らかな思考をしようとする感性の微妙な関係が描写されるようになっていく。

一般的に言えば、「自分のからだの生理」の意識を敏感に感じ取るのは女性なのではないか。
思春期にさしかかると、中性的な、ニュートラルな身体から「女性」になっていく過程に違和感を覚える女の子は少なくない(一昔前のオリーブモデルみたいな世界観が同性に受けたのは、まさにそういう汚れのイニシエーションを免れた存在だったからだろう)。

だんだん「女性」になっていくことを「穢らわしい」と思う少女の感覚と、それを俯瞰して「そんなことないよ」と言う二つの感覚が梨木香歩の世界には共存しているように感じる。
たましいは、からだを嫌悪して「解脱」したいと思う。
けれどもそれは自分が「生物である」ということを否定することだ。

オトナとしての梨木香歩は、生きている以上からだがあること、女あるいは男であるのは仕方ない、そのように頭では理解している。だから、何とかからだを肯定できるように世界の様々な現象を考察していく。
「西の魔女〜」で描かれるのは、そんな風にたましいがからだを受け入れるようになっていく、主人公の少女がおばあちゃんのような存在へと成長していく過程だ。

そのために、自分が汚いと思う「生々しい」ものを、たましいを鍛えることで受け入れられるようになっていく、そんな人生モデルが用意されている。
しかし、梨木香歩はできることなら、たましいをからだより遥か彼方に飛ばしてしまいたいという、根本的な肉体への嫌悪感があると僕は感じた。それはほとんど原罪意識のような形で作品の底に沈んでいる。

からだがあるということは前提だから、せめて上手いつき合い方を考えたい、という消極的な肯定だ。
きっとこんな感覚が、広く受け入れられる原因なのかもしれない。
「女性(男性)」を肯定的に受け入れて、自覚的に使っていける人は思ったより多くないのだから。

…とこういう話を長々すると、「んなことないわよ」と突っ込みを受けそうなのでやめておく。
で、このからだとたましいの関係性が、「沼地のある?」では、性の問題から生命の成り立ちそのものへと主題がシフトしていく。
それは同時に、「たましい」にも嫌疑の眼差しを向け始めるということだ。

自分が自分だと思うこの「意識」というものの根本を探るきっかけとして、「糠床」が登場してくる。
(こういう問題提起の視点が、梨木香歩の個性なんだろうな)
そして彼女が辿り着く世界とは一体何だったのか??

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