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旨安ワインに見る、自分ごとの味とは何か問題。

気づいたら年の瀬。風邪とかひいてませんか?
こないだ行きつけのワインバーで、旨安ワインについてマスターと話し込みんできました。
旨安ワインって確かに美味しいんですけど、その美味しさって最大公約数のマスマーケティング的な美味しさで「自分ごと」にできない。自分ごとの味にならないと「もう一回!」にならないんですよね。

発酵食品の味を測定するときに五角形の味覚チャート(甘・塩・酸・苦・旨or辛)を使います。大量に流通する調味料やお酒は、定量的に「不特定多数の人に対応できるバランスのとれた五角形」を割り出してそこに商品の味を当てはめるセオリーで生産されることが多いんです。つまり平均化された味覚です。
でね。大手食品メーカーには、定量化した味覚を色んな物質をかけあわせて合成する専門部署があったりするんですね。ウニとか熟成した高級酒の味を分解して別の成分で再構成するかを研究していたりするわけです。

感性の領域とされる味覚も、いっぽうでは分解・再構築できる物理現象としてデザインされているんです。

味覚の定量化によって「外れなく美味しいもの」が簡単に手に入る状況には功罪があります。「バランスの取れた五角形」ばっかり食べると食べることに飽きてくるんだよね。なぜなら味覚の五角形は人それぞれいびつだからね。

100万人に届く美味しさは自分のいびつな五角形に当てはまらない。自分ごとじゃない味。

クラフトビールや手前みそ食べて「美味しい!」と感動するのは、そのいびつな五角形が自分のいびつな味覚にシンクロした時。

「えっ、ブライアン・イーノ好きなの?オレも好き!」

みたいに。自分にシンクロした味はもう圧倒的に習慣化する。この現象がコミュニティ単位で蓄積されると味の地域性になる。

旨安ワインでよく「◯万円の高級銘柄もビックリ!」みたいな売り文句がありますが、僕の感覚でいうとそれは「五角形のどこか一点が高級銘柄に類似している」という感じです。五角形全体でのユニークさがない。基本平均点の味に、どこか一個だけキャッチになる要素を乗っけている。広告代理店のやっつけ仕事みたいな味が天井になる残念さよ…!

じゃあバランスの崩れた良さって何なのよ?てな話ですが。
今年の春に阪神百貨店のポートランドフェアのゲストに呼ばれて現地のクラフトビールを飲み比べしましたが、信じがたいほど極端な味覚チャートが林立してました。
個性的になること、尖り切ることが結果的に大手のビールメーカーとの棲み分けになることをよくわかっている。

カタチのいびつな美味しさには、口にする自分をインスパイアする何かがある。
もっと言えば煽ってくる

「オマエは…自分が思っているよりもヤバい味覚センサーを持っている…オレを信じて…解放しろそのセンサーを…!」

という中二病的煽りを入れてくる。
これが「自分ごとの味」との出会いの瞬間です。

自分ごとの味、すなわち「いびつで多様な楽しさ」をどうやって文化として根付かせるか?という課題の解決法は「とにかく裾野を広く」なのですが、カタチの整ったマスプロダクトが広く普及して出てきた課題なので理屈として矛盾している。この矛盾を解決するためにクリエイティビティ大事。合理性や正しさ以外の価値をつくる。
平均点プラスαの旨安ワインも「わっ、ワインって美味しい飲み物なんだ!」とワインを知らない人の入り口になる意味で役割があります。問題はその次の「自分のワイン」にどう出会うかで、これはもうメーカーや商社というよりは飲食店やメディアになれる「読モ」のクリエイティブ力にかかってきそうです。

僕が閉塞した業界において「読モが大事!」と主張するのは、「ワタシにとっての価値」をクリエイティブに伝えられる個人や小さなお店の母数がその文化の多様性を担保するからだと信じているから。「ワタシが好き!」の裾野の広さが文化の質やで。

【追記】読モって何のこと?という人は『発酵文化人類学』の第五章を読んでね。

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