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ファシリテーションの落とし穴。「正解探し」のワナに陥らないようにするツボがある。

渋谷でファシリテーションに関しての打ち合わせ。

今でこそ一杯飲んできた体でイベント会場にあらわれ、適当なことを言って山奥に帰っていく、という沖縄の妖怪みたいな姿に成り果ててしまったが、ソーシャルデザイナーとして頑張っていた頃は、熱心にファシリテーションを研究していた。

僕のブログを読んでいる人のなかには「場づくり」に関わるファシリテーターも多いと思うのだけど、いやけっこう奥が深いんだよねえ。

「定量」の課題と「定性」の着想。

さて。
打ち合わせでは「賢い人が集まるほど、みんな無意識に着地点を見つけてしまうので議論が深まらない」というなかなか込み入った課題が出てきた。

なるほど。
「生産性よりも、場の雰囲気を保つを優先してしまう」というパターンね。
「私たちは友好的に議論を深めました!」という空気を発生させることが第一になるあまり、議論する前から見えている「まあそこらへんが着点だわな」という論点から先に行くことができないということが起こる。

企業であるなら
「当社の課題は第一にシステムの脆弱性を克服することであり…」
「したがって、2018年までに30%の改善を…」

地域コミュニティであるなら
「お年寄りも子供も安心して住めるような地域をですね…」
「防災に備えて、◯◯公民館に貯水タンクをですね…」

という感じになる。
普段のルーティン業務や打ち合わせで自明の「定量的」課題が議論の帰結となる。

確かにこれはつまらんだろうなあ。
だって「場づくり」の特徴ってのは、ふだんの会議では顔を合わせないような立場の人たちが、即興で思いもかけないアイデアや視点を得ることに醍醐味があるわけでしょ。

でね。「思いもかけない」とは一体何かというと、「定性的」着想であるのよ。
ルーティンの「定量」に対する、一回性の「定性」。

ヒラクが思うに、ファシリテーションの極意はこの気まぐれな「定性」の尻尾を捕まえるためにある。通常の思考の枠をぶち破る「発想のジャンプ」。これはどのように成し遂げられるのだろうか。

「我々」の定量と、「ワタシ」の定性

ポイントは「主語をどこに置くか」だ。

「定量」とは、数値や現状分析から「自明に割り出せる」ということなので、「ワタシがどうこう言う前に既に決まりきっている」もの。なので、主語は「我々は」になる(あるいは「我が社は」とか「◯◯市は」とか)。

対して「定性」とは、数値や現状分析はあくまで「考える材料」であり、そこから自分なりの仮説やシナリオを組み立てていくプロセス。なので主語は常に「ワタシは」になる。したがって「ワタシが思うに、我が社は…」、「ワタシが思うに、◯◯市は…」という文法を採用せざるを得ない。

抽象的な話で申し訳ないが、このニュアンスなんとなくおわかりいただけるだろうか。
「キレイにまとまったような気がするが、何か予定調和で面白くない」という感想は「ワタシの不在」によって引き起こされる。

これにイラッとするオーガナイザーは「もっとみんな、ドーン!と自分をさらけ出さないとイカン!」と言ってぷんすか怒ったりするが、その態度は己の芸の無さを露呈しているだけなのだね。

だって考えてみてくださいよ。
普段の業務で「ドーン!と自分をさらけ出すこと」が求められてますか?求められてねえよ。
むしろ「アンタの主観はいいから、まずは今日のノルマをこなしてね」というオーダーのもと日々を送っている。

「はいここはオープンな議論の場ですよ〜、みんな素の自分になってくださいね〜」と口で言ってみたところで、ハイそうですかとはならないのが現実。よしんばなったとしても、それは「素の自分をさらけだした風」を装っているのに過ぎない(←これが冒頭の「賢い人が集まった時の問題点」ね)。

そこで「自然に自己開示ができる仕掛け」というものが必要になる。
僕がよくやっていた手法として「人生曲線を描くワークショップ」というものがある。これは、自分の人生を振り返って、最悪だった時と最高だった時を両極として人生の振れ幅を見える化するという作業。「最悪だったのは、ダンナと離婚した時で…」「最高だったのは、学園祭でみんなと団結した時で…」というのをグループで共有していくんだね。

このワークショップの狙いは、「人事部長のヤマダさん」を「学生時代にグレまくっていたところを、担任の先生の必至の説得により更生しやっぱり世の中人だよな、と実感して人事の道を歩むことになったヤマダさん」に変換することにある。
つまり、どこでもいる「人事部長のヤマダさん」という「定量的存在」を、世界にただ一人しかいない「定性的存在」に変換する。参加者を「定性的存在」に変換してはじめて、場に「定性の神」が降りてくる。

あなたはこの世にただひとりの存在です」と承認しない限り「自己開示しろ」というのはただのパワハラなのだね。

定量的「我々は」論法には「正解がある」というメリットがある。データや世論が自分の発言を裏付けしてくれる。翻って、定性的「ワタシは」論法に正解はない。その発言の責任を取るには自分という存在だけ。その恐ろしさを乗り越えてジャンプするために「その人の存在そのものを承認する」というプロセスが不可欠になる。

定量的議論では、メンバーが「審判」になる。その裏付けは妥当なのか、売れるのか、ポリティカルにコレクトなのか。
しかし定性的議論でそれをやると、残念すぎる結果を招く。「それはアナタの主観にすぎないのではないか?」「アナタの発言を裏付ける前例は?」という突っ込みが入った瞬間、普通の人は沈黙してしまう。

「ジャッジする」という役割を場から取り上げてしまうこと。ただ一人の存在である自分を承認すること。その2つを揃えることによって、ようやく「定性的議論」ができることになる。

「人事部長」という定量的肩書を外し、ヤマダさんが自分の人生を背負って言葉を紡ぐ瞬間。

「わたくしぃ、ヤマダはですねえ、学生時代の恩師の背中から学んだことしてぇ、やはりこの会社の最大の資源は『人材教育』だと思うのです!」

涙ぐみながら熱弁するヤマダさんは、この瞬間、歴史上ただひとりの「定性的存在」足りえる。それがどんなにありふれた言葉であっても。

「我々は」という主語は、いずれ人間のものでなく人工知能のアルゴリズムのものになるだろう。その時に問われるのは、常に「ワタシは」なのだ。

…とワタシは思う。で、アナタは?

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