▶発酵文化人類学, ▷酒の美学

「日常の食卓」にふさわしい価値観。

発酵ツアーの話の続き。
今回のツアーは、「考え方の違うお酒」を飲む機会になりました。
表参道では寺田さんとこのお酒、大阪では島田商店で熟成酒(日本酒の古酒ね)を飲んで、ふと「なぜ日本酒離れが進んでいくのか」という問題のヒントが見えたような気がしたんですね。
『洋食化が進んだ、そもそも若者がアルコール自体を飲まなくなった。だから若者は日本酒から離れていっている。』
これが日本酒離れの問題で語られる、よくある定説。なんですが、それはちょっと解像度が低い考えかたではなかろうかとヒラクは思うんです。
ちょっと主語を変えて(日本酒を主語にして)自分なりに定義してみますね。
日本酒が離れていったのは、若者ではなく、日常の食卓である。
日本酒は、純米酒ブームの後美味しくなったと言われています。
僕はその始まりを知らないのでなんとも言えませんが、たぶん本当だと思う。色も味も水のように澄み切った純米吟醸酒。お米を削りに削って、真ん中の芯のみを使って作る、華やかで洗練されたお酒。
美味しいですよね。
美味しいんだけど、ヒラクの普段の食卓には並ばない。
それはなぜか。
まず「高い」というのがあるんですが、もし僕がお金持ちになったとて、たぶん普段は飲まない。
純米の良いお酒は、僕がふだん食べるような家庭料理にあわない。あわないというか、そぐわない。なんか、不釣り合いのカップルみたいな感じなんですよ。料理側から見ると、お酒があまりにも「高嶺の花」みたいな感じで、ちぐはぐな感じが出てくる。
おそらく「美味しさ」が、「日常の食卓」ではなく「料亭の食卓」を想定して作りこまれているような気がするんです(あくまでヒラクの主観ですけど)。
新鮮なお刺身とか、懐石とか、食卓のレベルがお酒と同じく「洗練され」、「素材を選びぬかれた」ものでちょうど釣り合うかたちになる。
そういう風なレベルの上がりかたをした結果、僕たちの世代にとって日本酒はともすれば、「温泉旅館とか高級寿司店でいただくもの」みたいな認識になってしまう。
(人のよっては、ほとんどコニャックとかブランデーの世界かもしれない)
そう考えてみれば、「若者の日本酒離れ」は問題というよりは、「高級(究極)さを目指す」という戦略が成功した必然とすら言えてしまう(だって構造的に貧乏だからね、若いもんは)。
「じゃあ吟醸じゃなくて普通の純米酒飲めばいいじゃん」という話にもなるのですが、どうしても「最高級の大吟醸からランクの下がったセカンドライン」みたいな風に受け取ってしまうので、「本当は大吟醸、飲みたいのになあ…」という願いを頭のどこか片隅に抱えながら飲むことになる(もう発想からして貧乏くさいね、ヒラクくんは)。
というわけで日本酒は美味しいとわかりながら、痛し痒しの状態になって、普段飲みの習慣ができないということになる。
ところがね。
寺田さんとこのお酒や熟成酒を飲んだときに、「あ、これなら普段から飲めるかも」って思ったんです。お浸しとか、厚揚げとか、中華とかちょっとイタリアンっぽい料理でも、けっこう合う気がするなと。
寺田さんとこのお酒は、ちょっとしたワイン屋さんで買う1500円の飲みやすい白ワインみたいな感じで、熟成酒は中国の紹興酒みたいな感じで、けっこうカジュアルな「食中酒」なんですよ。
いい意味でおおらか、雑味がちっともイヤじゃない。
で、話は最初に戻りますけど、こういう日本酒は「考え方」がそもそも違う。
つまり、「違うおいしさの定規」がある。澄み切った味と飲み口という「洗練された定規」とは違う方向性で作りこまれているから、主流から外れているようでいて逆に「若い世代にとってのメインストリームになり得るのでは…」なんて思ったりして。
だいたい、ここ数年で僕たちの世代では、「食卓の定規」もまた変わってきている。
グルメから、素朴なものへと嗜好が反転していっている(詳しくは地営業通信の最新号をどうぞ)。なので当然、和食も見直されて生きているし、見直されかたが「料亭の味」ではなくて「郷土の味」みたいな感じで、「日常の食卓」へと向かっている。
つまり、「非日常の食卓」から「日常の食卓」へと価値観が動いていっている。
そんな流れのなかで、ある種非日常の高みを目指す「芸能」と化した日本酒は、せっかく和食へと揺り戻しが起こっても、「あれ?なんかちぐはぐだな」となってしまう可能性がある。
生産の現場が近く、生態系に負荷をかけない「無理の無い、等身大の価値」が食卓に根付いていくならば、それとあわせるお酒も近い価値観でないと、「お祭り用の飲み物」になってしまう。それはもったいないよね。
あ、でも「お祭り用の飲み物」が日本酒のもともとのかたちだから、それでいいのか。
(以上、お酒好きの素人の一意見でした。)

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