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「原点回帰」でも「進歩」でもなく。テクノロジーへの「良い距離」を考える。

「フード左翼とフード右翼 食で分断される日本人」という本を読んだ。うーん、色々考えさせられることがあったなあ。

今日はこの本の論考を下敷きにして、自分のなかでの「テクノロジーとどう向き合うべきか」というモヤモヤと向き合ってみます(本の批評ではないのであしからず)。

科学と技術に対する意識のギャップ

まず、「フード左翼」と「フード右翼」って何ぞや。

「ファーマーズマーケットへ行き、有機食材を好み、マクロビやベジタリアン、ローフードなどの食生活を取り入れている、食に対して『意識高い系』のひと」がフード左翼。対して、「ラーメン二郎に通い、ジャンクフードやB級グルメが好きで、安くてお得なことを重視する、『食の情報元はGIGAZINEです!』なひと」がフード右翼。

で、著者は「日本人にとって、食に対する嗜好は単なるライフスタイルを超えて『政治的行動』である」と主張している。確かに考えてみれば、ナショナリズムやエネルギー、地域福祉の問題など、今ホットなトピックスに対する意見は、「その人の食の趣味」と連動している率がけっこう高い。

でね。
ヒラク的に「ふむふむ」と思ったのが、「フード左翼の人が陥る原理主義の罠」なのよね(←この表現は僕のアレンジですけど)。これは何かというと、フード左翼が極まると、化学肥料を使った慣行農法や遺伝子組み換え作物に対して無条件に否定的になる、という見方。

著者の速水さんは自分のことを「そもそも自分はフード右翼寄りの人間である」と言っている通り、良い感じで右も左も客観視しているのが素晴らしい。
ローカルなレベルでは、経済にも環境にも良さそうな「有機農業」も、マクロなレベルで見ると「収穫効率が悪いので、飢餓問題を引き起こす」可能性のあるものだ、という見方もできる。じゃあ、有機農業のまま虫や雑草を取る手間を省くためには「遺伝子組み換え作物」の技術が有効なのだけど、有機農業に賛成して、遺伝子組み換え作物にも賛成する人はほとんどいない。なので、有機食材やそれを使った各種のライフスタイルは「都市部の富裕層の特権的趣味」になってしまうのではないか、と。

いやー、これってさ、ウィリアム・モリスの「アーツ&クラフツ運動」の辿った道を思い起こさせる。マスプロダクトに対する反発として、クラフト文化をモダナイズした素敵なデザインをつくったものの、生産効率が良くないから高価になって、結局貴族の嗜好品になってしまった。それってモリスの社会主義の理想と「ねじれの位置」にあるじゃん…的な。

科学に対する盲目的な信仰→盲目的な懐疑

さて、話は変わって。
僕の名前、ヒラクは漢字で書くと「拓」。で、親はいわゆる一つの団塊の世代。改めて眺めていると、「拓」という名前、時代のセンスを感じるよなと。

よく言われる話だけど、終戦前後に生まれた世代には、軍国主義で精神論バリバリだった(らしい、僕は知らないけど)戦中の世相に反発するように、「科学的姿勢」が大事で「社会は進歩する」的な世界観を良しとして生きてきた(らしい、僕は知らないけど)。

そんな価値観の親からは、僕のような名前が生まれるわけだ。

ところが時代は一周回って。
望み通り科学が超発展した2010年代、今度は「科学に対する懐疑」が出てくる。科学的テクノロジーのせいで、環境も貧富の差も危機的になったではないか。今こそ原点回帰だ!

…というスタンスは、『食の消費と生産に対して顕著にあらわれる』と速水さんは分析する。

一方で、今度は僕の同世代の価値観として、人間の知的労働を代替するアルゴリズムや、人工知能を搭載した電子ガジェットをつくるのに情熱を燃やす「テクノロジーGEEK」というものも存在する。

えーと、何が言いたいのかというと。
「科学信仰の反動で今度はテクノロジーに極度に懐疑的になったひと」が団塊の世代のなかで人口を増やし、その子どもの世代では、「ナチュラルボーン・ウィリアム・モリス or 柳宗悦」的な価値観と「テクノロジーGEEK」の二極が併存している、という状況になっているのだな。そしてそんな状況は実は「食の趣味」から割り出せるのだな、ということがこの本を読んでよくわかったぜ、ということなのね。

じゃあ僕のスタンスは何なのよ、ってなるよね

「ごたくはもうたくさん。で、結局ヒラクくんはどうなんだね?」

うーん、そこだよね。
僕は、かなりの「フード左翼」。ファストフードやコンビニ弁当は数年来食べていない。同時に、このブログを読んでいる人はご存知の通り、「テクノロジーおたく」。周りにITベンチャーをやっている友達もたくさんいる。
(で、僕のこういうあり方は別に特殊なわけではなくて、割りと多くの人にあてはまったりするのではないかと思うんだけど)

僕がここ数年来すごーくお世話になり、かつ共感している人たちに、かぐれとロフトワークの二つがある。前者のかぐれは現代における「ナチュラルボーン・ウィリアム・モリス」だし、後者のロフトワークは「テクノロジーGEEK」の最先端。

あるいは、僕の大好きな「読書」で考えてみよう。古本を使ったワークショップをしているBook Pick Orchestraのファンだし、電子書籍のプラットフォームを作っているWOODYにもワクワクしている。

そして今僕が研究している微生物の世界では、発酵醸造文化という日本のクラフト文化への探求という側面もあるし、バイオテクノロジーの最先端という側面もある。

要はだな。「右翼と左翼」という二項対立は、状況を整理するために便利なフレームではあるけれど、必ずどちらかを選ぶ、ということではないのだね。
自分のデザイナーとしての職能を考えれば、「二項対立は、第三の解決方法を考えるための材料」のはず。

有機農業の収穫効率という問題は、遺伝子組み換え技術だけでなく、例えばマクロなバイオテクノロジーを使えば改良できるかもしれない、とかね。

あるいは別の考え方もできる。
歴史的に継承されてきたクラフト技術のなかから「最先端のテクノロジー」を取り出す。農業でも林業でも、そこには相当最適化された加工技術や素材の生産技術が明文化されない状態で眠っていたりする。そこをデザインの方法論を使って取り出すことができる(と思う)。

「昔に戻る」ことも「進歩する」ことも、実は主観が評価する幻想でしかない。
テクノロジーと自分の目指す生活のあり方のバランスを取るのは、不特定多数の共有するイデオロギーではなく、個人単位の繊細で具体的な「センス」や「テクニック」なのだと思う。

実際、僕が地方での仕事で出会ったコミュニティには、「富裕層と貧困層」という二項対立とは全然違うかたちで面白いライフスタイルをつくっているところがいくつもある。ウィリアム・モリスの時代と違って、現代はより「二項対立に縛られない世界」をDIYできる環境が揃ってきているのかもしれない。

理想の世界はどこか彼方にあるのではなく、すでに遠くないところに小さく生まれている。その種をどうするのか、それは個人の行動と美意識にかかっているよね。

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