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「わかりやすい」は「読みやすい」ではない。しゃべると書くの関係性

「わかりやすい」は「読みやすい」ではない。
と、最近強く感じるわけですよ。

僕の専門は微生物学や発酵学。大学の専門課程で学ぶことなので、フツーの人にはハードルが高い。でもそのハードルを下げて「わかりやすい」と思ってほしい。
(デザインというスキルも、突き詰めていくと複雑でテクニカルな事柄を、どうやって直感的に「わかりやすい」ことにしていくかとも言える)

かように「わかりやすい」は重要なわけよ。

さて。
では僕の書く文章は「読みやすい」かというと実はそうでもない。試しにこのWIREDの寄稿記事を読んで欲しい。

>発酵は「人間だけの世界観」を越えた新しい関係性をぼくたちに見せてくれる

別にそんなに文章が構造化されてもいないし、結論から述べてもいないし、ヘンな例えもいっぱい入るし、論旨があちこち飛んだりしている。
教科書的な「読みやすい文章」とは全然違う。

しかし、読んだ人の多くは「わかりやすい」と言ってくれる(←みんな、ありがとよ〜)。
それはなぜか。答えは実は単純。

僕の文章は、僕がしゃべっているのに似ている。

編集者やライターの皆さま、「テープ起こし」って作業をするでしょ。話をしていた時には「おお、なるほど!腑に落ちた〜」と思っていたことが、テープで聞くと「何だこのフィーリングだけで進んでいくアヤしい論旨は」と感じたりする。

「しゃべる=聞く」の関係性は「書く=読む」の関係性よりも「わかりやすさ」を感じやすい。「しゃべる=聞く」の関係性は親密だからだ。「私」から「あなた」の距離が近い。だからメッセージが届きやすい。

ではしゃべっている事をそのまま文にすると「わかりやすい」かというとそうでもない。しゃべるという行為に付随している「リズム」とか「体温」とか「言いよどみのクセ」とかを表現に付着させる。「書く=読む」の関係性を一時的に「しゃべる=読む」であるかのように錯覚させる。まずベースに「書かれた文章」があって、それを「しゃべる」に近づけていく。

そうすると「わかりやすい」。
ここ数年、トークイベントで司会やホストをやり続けることで得たのは「トークイベントの会場で感じる『なるほどね!』を読むという行為の中に落とし込めないか」という気づきでした。

ということで、今日もトークイベントの司会ダブルヘッダー。
午前中は西荻で映画「100年ごはん」の監督とおはなし@HAPPY DELI 、午後は甲府で醸造家とトーク@こうふのまちの芸術祭。

僕にとって「しゃべる」と「書く」はよく似ている。

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