歴史は主観的に編集される。
こんばんは、ヒラクです。
今夜は時事ネタについて(珍しいね)。
ここ数日話題になっている、ジブリの新作「風立ちぬ」についてのニュース。
ソースはこちら→http://biz-journal.jp/2013/08/post_2702.html
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『風立ちぬ』内で頻出するタバコの描写に対し、NPO法人・日本禁煙学会(以下、学会)が苦言を呈し、波紋を呼んでいる。
学会が8月12日付で制作担当者へ送付した要望書「映画『風立ちぬ』でのタバコの扱いについて(要望)」によれば、「教室での喫煙場面、職場で上司を含め職員の多くが喫煙している場面、高級リゾートホテルのレストラン内での喫煙場面など、数え上げれば枚挙にいとまがありません」と具体的にシーンを列挙し、主人公が病室で結核患者の妻の横で喫煙するシーンや、学生が“もらいタバコ”をするシーンを特に問題視している。そして「さまざまな場面での喫煙シーンがこども達に与える影響は無視できません」「映画制作にあたってはタバコの扱いについて、特段の留意をされますことを心より要望いたします」と、制作側へ求めている。
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そういえば、「西の魔女が死んだ」でも同じような話がありました(イギリス人のおばあちゃんがスモーカーなのよね)。
「西の魔女が死んだ」の場合と違うのは、歴史が絡んでくるところですね。
日本禁煙学会の要望にたいしての反対意見としては、「だって映画の舞台となっている時代は、みんなタバコ吸ってたじゃん」というもので、要は「あんたがたの都合で史実をまげるな」ということですね。ごもっとも。
さて、この話を聞いたときに思い出したことがありました。
今から数年前、パリの旧国立図書館(ルーブルの近くにあるとこ)で、知り合いのキュレーターから「カロリング王朝の写本展」というマニアックな展覧会に招待してもらった時のこと。
その展覧会は、昔フランスのあたりにあった王朝(7?10世紀ぐらい、確か)の写本と、その原典であるローマの古文書を並べて展示するというものでした。
でね。
写本と原典を並べて見るとわかるのですが、「写本」といえど色々と違っているんですね。
例えば、挿絵に書かれた人物の衣服。写本ではカロリング朝の風俗だし、原典ではローマ風(テルマエ・ロマエみたいな)。神様への祈り方とか、建物の建築様式とかも、同じページの同じ場面であっても「当世風」にアレンジされていたりするわけです。
その時代の「写本」って、今の時代みたいにコピー機はないわけですから、専門家が手書きで書き写すんですね。「全く同じものを機械的にコピーする」という概念自体が存在しないから、写すときにナチュラルに「主観」が入ってしまうわけです(ちなみに原典とされているローマの古文書もギリシャ時代の写本だったりして、またアレンジが入っていたりする)。
で、「風立ちぬ」の話に戻ると、日本禁煙学会の思考回路はカロリング朝の写本をする人に近しいわけですよ。「当世にそぐわないものは再現しないよ」ということですね。
ではもうちょっと検証してみましょう。
昭和初期だと結構「現代」なので、江戸時代まで遡ってみます。
江戸時代の文書を探してみると、今には影も形も残っていない風習がたくさんあります。例えば、ものを燃やした後の灰を業者さんに引き取ってもらったり(肥やしとかお酒づくりに使う)、既婚の女性は眉を剃り落として歯を黒く塗ったりしていました。
さて、現代ではそんな風習はすっかり無くなってしまったので、大河ドラマでも灰を買い取る業者さんとか、歯が真っ黒な女優さんは出てこない(ヒラクの見てる限りでは。もし見てる人がいたら教えてくだされ)。
もし史実を忠実に再現するのだとしたら、街角には灰や人糞を回収する業者さんや、歯が真っ黒な女の人や、甘酒売りなんかがいるはずなのですが、そうでもない。
その理由は、現代において「その風習が無くなったから」です。
人の記憶から抜け落ちたものは、歴史記述のなかからも抜け落ちていきます。記述する人の記憶のなかに残っていないものは「主観的」にはじかれていくわけです。
今回の「タバコを吸うシーンが多くてけしからん」という人と「その時代はタバコを吸う人がたくさんいたんだ」という人の意見の相違は、「タバコという風習が無くなった世界に生きている人」と「そうではない人」の対立だと言えそうです。
そう考えていくと、タバコという風習が「灰のリサイクル」とか「お歯黒」みたいに、「過去の風俗」になるかどうかの移行期にあるということなんでしょうね。
問題の本質は「有益性(有害性)」ではなくて、文化人類学的な「記憶」の問題に関わっています。
どれだけ技術が発達しようと、人間は常に歴史を「主観的」に編集するクセが抜けない。困ったもんだね。