作家の開高健が「物書きはなるべく人前に喋る場にできないほうがいいと思ってるんですね。喋るのが上手くなりすぎると作品書けない」というようなことを言っている(そういうわりに大阪人の開高健は話めちゃ面白いけど)。
言葉に身体感覚が乗ってくる感じ。
— 小倉ヒラク | Hiraku Ogura (@o_hiraku) June 20, 2024
少なくない本を執筆してくると、「しっくりくる」という感覚が生まれてきます。ここには正解はなくて、標準的な言語運用としてちょっとヘンでも「自分の呼吸に合ってる」フィット感。こういうのが蓄積されるといわゆる文体というヤツになる(たぶん)。
自分でも本書くようになってこれちょっとわかる気がする。自分の呼吸にあった「書く」の型があるのとは別に、「しゃべる」にも型がある。人前でしゃべるプロ(タレントとか政治家とか)がプロたり得るのは内容と同じかそれ以上に「しゃべりの型」の魅力が大事。開高健が言いたかったのは、「しゃべりの型」が「書くの型」を邪魔するのはいかん、ということなんだと思う。
翻って僕の場合を考えるとだな。
僕の物書きとしての原点は2010年からやってるブログ。昔のエントリーを読むと、明らかに文語じゃなく口語寄りのスタイルで書かれている。発酵という専門的なことをしゃべるように(口語のスタイルで)書く。そうすると世間話やカジュアルな講義を聴くような感じで内容が入ってくる。このブログスタイルで書かれたのがデビュー作の『発酵文化人類学』。2017年にああいう内容をああいうスタイルで書いたのはそれなりに意味があったんだと思う。
思うんだけどさ。その後気づいたのが「しゃべりの型は書くの型よりも親しみやすいかわりに、賞味期限が短い」ということ。出た当時は面白みがあったんだけど、時間が経つとだんだん「あれ、ヘンかも?」と違和感に変わっていく。面白さ→違和感に変わるサイクルが早いからこそ、毎年のように目新しい流行語が生まれ、数年で時代遅れになる。
対して書くの型(文語)は時間の経過に比較的強い。明示以降の本であれば、それこそ夏目漱石の小説でも現代の文章のフィーリングで読むことができる(よね、たぶん)。もし文語が口語なみに新陳代謝が激しかったら、古典が成り立たない。「書く」の型は後世の人に伝わりやすいように構築されているもので、「しゃべる」の型は今の時代を生きている人を主眼に構築されている。
つまり、しゃべりの型はフロー、書くの型はストック。文語が主な書籍にしゃべりの型を持ち込むと、一時的な面白さのかわりに時間の経過に弱くなる。
開高健の話に戻るとだな。
彼が言いたかったのは「後世に残るような文学作品を残したくば書くの型を優先せよ」ということだったのではなかろうか(少なくとも日本語においては)。
僕も作品を重ねるうちに少しずつしゃべり→書くの型に移行してきていて、そろそろ自分なりの「書くの型」をつくる時期なんだろうな、と感じている。
【追記】ちなみに書くとしゃべるの型の関係性は言語によって違いそう。中国語とかはどうなんだろか?